教会だより

No.70  2023年10月29日

激動と静謐(せいひつ)のはざまを生きた信仰者たち

牧師 木村拓己

 

 原宿教会が設立された背景には日本基督同胞教会の歴史が流れています。日本基督同胞教会の歩みは、米国基督同胞教会の支援によって始まりました。現在、「同胞教会史研究会」が富坂キリスト教センターによって主宰され、原宿教会を代表して出席しています。その様子を少しご紹介いたします。
 この研究会は、明治期に萌芽を見た日本における同胞教会の歴史とその宣教の働きを振り返り、その実りを記録する資料集発行のための研究会です。
 現在は、明治から大正にかけて、「年会」(日本基督教団で言えば教団総会にあたる)と機関紙「同胞」を紐解きながらその歴史に学んでいます。その歩みの至るところに原宿教会の名前とその信仰が見られます。地域に向けて伝道集会を開いて五百人が連日来場した記録、地域にたてられた同胞教会の仲間と助け合った記録、何よりそこで信仰を志す者が加えられて、教会としての歩みが形作られてきた記録に触れることができます。
 去る九月に行われた第八回の同研究会では、一九二三年の関東大震災が発生した頃の日本基督同胞教会の様子を読みました。当時の日本基督同胞教会を支えた矢部喜好(やべ きよし)牧師は、日本基督同胞教会の要請を受けて、被災状況を伝えるために関東に入りました。大震災発生から一週間後の九月八日に旅立ちます。大阪を出発して名古屋まで汽車に乗るのですが、東海道は寸断され、いわゆる中山道を通って甲府に向かい、翌日上野に到着します。
 一週間が経った後も、一日に何度も余震が続き、一時も安心することができない人々の姿がありました。緊急時のため無賃(乗車料無料)となり、東京から逃げるように人々が離れる中、彼らは東京に入っていきます。「入京証明書」が必要だったようです。
 上野から新宿を経て九月九日、彼らは原宿教会を訪問します。当時の横田格之助牧師に会って、三家族が被災したものの大きな被害がないことを喜び合ったこと、教会内に一〇名ばかりの避難者を受け入れていたことが記録されています。
 都内の教会を訪ねて安否確認を重ねる道中は、まさに死屍累々たる中を歩くということだったと記録されています。橋の上からのぞくと、焼けただれた遺体が折り重なるように集められ、川面にも多くの遺体が浮いていたこと、多くの人が煙と砂にばたばたと窒息していったという証言を聞き、愕然とした思いが語られていました。
 この速報に基づいて、兵庫・京都・滋賀・愛知・静岡・神奈川に点在する全国の日本基督同胞教会は支援金を募り、東京と千葉にある同胞教会の仲間のもとへと届けられました。
 誰もが関東大震災という未曾有の災害に言葉を失う中、なんとか支援と慰めと励ましとを呼びかけるために、機関紙「同胞」が発行されたのだろうと想像します。
 そうした歴史の上に、現在も原宿教会がこの地域にたてられていることを思うのです。同研究会が取り組む事柄は、現代にも通ずる諸々の課題に気づかされたり、先人の信仰に触れること多く、難しくも刺激に満ちたものです。その一端を少しでも教会の方々にお届けしたく、今回の巻頭言とさせていただきました。
 アドベントが近づいてまいります。苦しみと嘆きに満ちた世にお生まれになった救い主の到来を待ち望みつつ、私たちも目を開いて歩んでいきましょう。一人でも多くの人と福音を分かち合うために。