教会だより

No.32  2008年12月21日

クリスマスの喜び

牧師 石田 透

 救い主イエス・キリストのお生まれを皆で感謝し、喜び祝うクリスマスを迎えました。このクリスマス・シーズン、不況とはいえ街の至るところでクリスマスソングが流れ、イルミネーションが輝き、その光に包まれた中を人々が行き交っています。クリスマスの日にはきっと大切な人たちと一緒に満ち足りた心豊かな時を過ごすことでしょう。クリスマスはまさに幸せなとき、心暖かなとき、喜びのときなのです。でも私たちはこのような時の流れの中を、悩みを抱え悲しみに心ふさがれて、それでもそのことを人に知られまいと必死に歩いている人たちがいることを忘れてはならないと思うのです。

 二千年前にイエスさまがお生まれになったときの様子はいったいどのようなものだったのでしょうか。ルカ福音書は次のように証言しています。「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を生み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」暗く寂しく、しかも動物の臭いが立ちこめる中でマリアは出産し、イエス様はその傍らにあった藁の中に寝かされたのです。

 マリアもヨセフも、そしてイエスさまも、人々が憩い安らぐ交わりの外側にはじき出されていたのです。でもマリアとヨセフはその闇の中でも毅然とした態度を貫いています。実に堂々としており喜びに溢れています。二人は彼らに与えられた「恐れることはない。主が共におられる。」との御言葉を堅く信じ、その御言葉に希望を見出し、新しい歩みを始めたのでした。クリスマスの御言葉は喜ぶ者の喜びをいっそう深いものにし、喜ぶことの出来ない日常を生きている者に真の喜びを与えます。

 クリスマスの喜びの担い手となった人々の中に、マタイ福音書が紹介する「東方から来た博士たち」がいます。博士たちは長い道のり、厳しい旅をして生まれたばかりの救い主イエスさまを拝みにやってきました。彼らの旅は人生の旅と言っていいほどのものだったと思います。そして彼らはその人生の途上で救い主イエス・キリストに出会うのです。彼らはおそらく旧約聖書を繰り返し熱心に読み、ひたすら救い主を求め、救い主に出会う時を待ち望んでいたことでしょう。そして救い主を求めて人生の旅を続けていた博士たちは、ひたむきな生き様の中で、ついに救い主に会うことができたのです。

 4、5世紀の神学者でアウグスティヌスという人がおりました。アウグスティヌスは信仰の内容を、空っぽな器であると表現しました。つまり器の中が空っぽであってこそ、神の祝福と恵みが注ぎ込まれるのだと言うのです。東方からやって来た博士たちは、ちょうどこのアウグスティヌスの言う信仰者の姿だったと思います。心を自分の思いだけでいっぱいにするのではなく、心を開き、心のうつろなところにキリストを迎えて本当にあふれる喜びを受け止めたのです。

 また、あの時代、社会の底辺に生きていた羊飼いたちも、キリストの生まれた「まぶね」の傍らに立つ恵みに与りました。神の祝福から最も遠い所にいると考えられていた羊飼いや道を求め続ける博士たちが、クリスマスの本当に喜びにあふれたメッセージをその身に受け、その担い手になり得たところにクリスマスの喜びの意味があるのです。