教会だより

No.57  2018年5月20日

主の赦しの愛の中を生きる

牧師 石田 透

 ペンテコステの出来事以降、使徒たちは福音の担い手として、自らの存在の全てをかけて、イエスさまの示して下さった愛を一生懸命証ししていきました。しかし愛そのものであるイエスさまを百パーセント指し示すということは人間には不可能です。どんな立派な信仰の持ち主であっても、全ての面で高い能力を持っていても、だれも「これがイエスさまですよ」とイエスさまの愛の全体を指し示すことは出来ないのです。それが人間の現実です。私たちの知っていることは一部分であり、私たちがイエスさまについて語ることが出来るのも一部のことなのです。

 私たちは確かに欠けているところ、弱いところがたくさんあります。醜いところさえあります。福音を語るのにふさわしい器ではないかもしれません。口下手だし、行動も鈍く、頭もさほどクリアーではありません。もう年を取り過ぎてしまったと思うことがありますし、逆にまだ自分は若すぎるかもしれないと感じる時もあります。私たちは色々な面で確かに限界づけられています。イエスさまは全ての者を愛されましたが、私たちはそうすることが出来ません。思わずため息が出てしまいます。

 しかし、この人間の負の現実、私たち人間は全てのことに限界づけられているという事実は、私たちの生き方を消極的にするためにあるのではないのです。むしろ、様々な限界や弱さを持っているのもかかわらず、その小さな私たちのささやかな信仰を喜んで下さり、愛して下さり、そしてより良く生きなさいと祈って下さるイエスさまの存在ゆえに、私たちはせっかく命をいただいたのだから、前向きに生きて行こうという喜びが与えられるのです。この弱さはイエスさまの愛を知るための弱さなのです。

 使徒たちは聖書に記されているように、私たちと変わらぬ様々な弱さを持っていました。ペトロはその罪の姿をイエスさまの十字架の場面においてあらわにしてしまいました。他者のために十字架に架かるイエスさま。一方、自分のために十字架のもとを去ってしまうペトロ。しかし、そんなペトロをイエスさまは赦し、なおも愛されるのです。主イエスの十字架の出来事において、自らの限界を悟り、自分の正体さえ知ってしまったペトロに、復活のイエスさまは歩み寄って下さいました。赦しを宣言し、さらに新たな生きる場を与えるために復活のイエスさまはペトロに出会うのです。ペトロを赦し、励ますイエスさまの愛と、イエスさまのよみがえりの事実は、ペトロに生きる力を与えました。「自分は復活のイエスさまにあって、新たに生きることが出来るのだ」。ペトロは本当にそう思ったのです。

 使徒たちの説教は、ことごとくイエスさまの十字架と復活に結び付けられています。全ての人間にとって、「イエスはいのちである」「いのちのみなもとである」というテーマが彼らの説教には貫かれています。「死のただ中にあって私たちはいのちに向かって新しくされる」。これは彼らの実体験の中から与えられた真実です。彼ら自身も捕らわれの身となり、いのちの危機も経験しました。そんな厳しい状況の中で彼らは、「泉の水は涸れることはない。冬はこれで最後ということではない。冬の寒気はゆるみ、春の芽吹きがもうすでにそこに来ているではないか。」そのような確信を与えられたのです。苦難を経験することを通して神さまに近づけられていく信仰を使徒たちは語ります。主イエスをよみがえらせた方が自分たちをも主イエスと共によみがえらせ、御前に立たせて下さることを証しするのです。