教会だより

No.59  2019年7月7日

生きる力はどこからくるか

牧師 石田 透

 

日々の生活を営んでいる私たちが、その内実を最も単純に問う時、その質問は「幸福」というイメージを選びます。つまり「あなたは幸福ですか?」と。「幸福」というものは通常「欲求の充足された状態」を言います。一定のバランスのとれた安定感です。これは欠落感とは対極をなすものです。そしてこれは単なる安定状態ではなく、その人の充実した活動の有るか無いかが大きく影響するのです。つまり、これには生きている実感がなければならないのです。

 

ドストエフスキーは「白痴」の中で、「コロンブスが幸福を感じたのは、彼がアメリカを発見した時(結果)ではなく、発見しつつあった時(過程)である。…問題は生活にあるのだ。生活の絶え間なき永久の探求にあるのであって、決して発見にあるのではない。」と書いています。この場合、「探究」というのは自分自身がそこに関わっているということです。「探究」は生きている自分を感じさせるし、自らのうちにさまざまな「問い」を持つことにつながっていきます。そしてその「問い」は「生きざま」へと重なっていくのです。

「生きざま」は決してきれいな言葉ではありません。これを嫌う人もいます。「死にざま」につながるからでしょう。これは多分に人間の「負」(マイナス)の部分を含んだ表現です。しかし、考えてみると人間の「生」というものは、いかに多くの弱さ、悲しさ、愚かさ、貧しさ、卑しさを抱えこんでいることでしょうか。人間はこれらの「負」(マイナス)の要素を抱えながら生きるしかないのです。だからこそ人間は、自分の「生」というものを「幸福度」、つまり「どれだけ充たされているか」という「ものさし」ではかるのです。しかし、私たちの実際の生きざまは、「労する」ことや、「泣き笑い」「痛み叫ぶ」ことに満ちています。言い換えると、「苦悩と挫折」の中でこそ人間の生きざまは形づくられていくのです。人間の「負」の部分にまでしっかりと根を下ろしていく、そのようなものに裏付けられた人生は、確かな重みを持ったものとして私たちの日常を支えるのです。

今日の社会は、人間の「負」の部分をなるべく見ないように敢えてしている社会のような気がします。大切な子どもたちには、辛いことは体験させたくないと大人である私たちは考えます。しかしながら、今こそ「苦悩と挫折」の中に人生の深みをのぞきこみ、したたかに生きて、生の現実を曇ることのない目でしっかりと見ることのできる人間が求められていると思うのです。

 

荒野を雄々しく生きようとする人は不思議な温かさを持っています。隣人への温かい配慮と慰めは、自らの「苦悩と挫折」がその根拠です。苦しむ者、痛む者の辛さは、病の床にあって、自らが苦しんだ経験を持つ者がよく知るところです。「飢え」も「心の渇き」もそうでしょう。地を這うように生きざるを得なかった小さな人々と共に生きたイエスさまの姿が目に浮かびます。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という聖書の言葉が心に響いてきます。「苦難」を通して静かな、しかし力強い連帯が生まれるのです。この世界に生きる全ての人々の間に、そしてこの教会に集められ、兄弟姉妹として生きるように召された私たちの間にこのような関係が生まれるのであれば、それに勝る「幸福」はありません。