教会だより

No.63  2020年7月26日

共に仕えあう家族

牧師 石田 透

 家族を始めとして人と人とがどう向き合って生きていくかが私たちの永遠のテーマです。私たちには身近に聖書がありますから聖書から答えを得ればよいのですが、そう簡単に答えは見つかりません。聖書にこう書いてあるから、「皆さんこれを真面目に守りましょう」などとは単純には言えないのです。
 エフェソの信徒への手紙五章二一節以下には「妻と夫」の関係性について言及されています。最初に「互いに仕え合いなさい」とありますが、あとはずっと「妻が夫に仕えなさい」です。「仕え合う」なら分かりますが、「すべての面で夫に仕える」とはどういうことなのでしょうか。このテキストは時代の制約があったとはいえ、性差別や身分差別が当たり前のこととされているように感じます。一体パウロという人は時代的制約の中で何を大切にして生きていかねばならないと訴えたのでしょうか。確かにパウロは従属する者への勧告に続いて、力を持つ者への戒めも強く語っています。まさに我が身のように我が身の一部として、すべての責任を負いなさいと戒めます。夫、父、主人に対してイエス・キリストの生きざまを引き合いに出し、妻、子、奴隷と正面から誠意をもって向き合う心構えを語ります。パウロは差別的家制度に対する根本的な「否」を唱えた訳ではありません。その点では小さな存在を痛めつけてもなお変わらない律法主義的社会の徹底した告発者であったイエスさまとは違います。しかし、現実に力を持つ者を主イエス・キリストによって相対化し、一方的で身勝手な権力の行使に制約を加えようとしたことはパウロの大きな功績です。
 聖書は人と人との関係、またイエスさまと人間との関係を表現する際に「からだ」という言葉をよく用います。イエスさまは「かしら」、人は「からだ」です。また「からだ」の中にも様々な働きがあるように、共同体の中にも様々な働きがあります。エフェソ五章二八節には「夫も自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」と書いてありますが、自分の妻を自分のからだのように愛することは決して女性を低く見ることではありません。むしろこの言葉は結婚における夫婦の結びつきや近さというものを意味しているのです。しかし、この近さや親しさというものは「自分の体のように愛さなくてはなりません」というこの戒めを繰り返し味わっていくことの中で初めて与えられる近さなのです。親子や兄弟姉妹と同じく夫婦というものが、お互いが自分のからだのように、あるいは空気のように近いものであり、自然なものであるのは決して自明のことではありません。一見近く自然に見える夫婦関係が実はいかにもろいものであるか、私たちは時に悲しみと共に厳しい現実を目の当たりにします。私たちは一見近いと思っているこの関係の中に、とてつもない遠さが含まれていることを忘れてはなりません。夫婦というもの、また親兄弟というものは、互いに単純に各自の分身たり得るものではないのです。夫婦の結びつきは常に繰り返し約束の出来事です。神による約束の出来事です。それゆえに私たち人間は謙虚になって「互いに心をこめて愛さねばならない」のです。
 イエスさまが語った「神の国」、そして「愛の関係」は私たちの現実を飛び越えて一足飛びに実現するものではありません。家族の間で、友人同士で、教会員同士で、身近な処から私たちは「神の国」「愛の関係」を造り出していくのです。お互いが仕え合う存在になりたいです。「キリストに対する畏れをもって互いに仕え合う」者になりたいです。イエスさまがそうであったように、「まず自分が仕える」。そのことを心に刻みたいと思います。