教会だより

No.54  2017年6月4日

さわやかな風に吹かれて

牧師 石田 透

 イエスさまの復活から数えて50日目に弟子たちは全く新しい経験をいたしました。彼らは不思議なことに、自らが神の力にだんだんと満たされていくことを感じました。聖書によるとその神の力は「激しい風が吹いてくるような音」とか「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」とか表現されています。その不思議なものが彼らを包むと、彼らは聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの国の言葉で語り出しました。その様子は、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」というような、周りの人々が眉をひそめるようなものでした。もし私たちがその場に居合わせたら、周りの人たちと同じように、「あの人たちは何かに陶酔している。あまりに熱狂 的だ」と思うのかもしれません。

 イエスさまの十字架の死の後、弟子たちは会堂を追われます。かけがえのないリーダーを失い、宣教の拠点も失い、まるで羊飼いのいない羊のようです。イエスさまが言われたように、本当に聖霊が注がれるのだろうか。彼らは不安の中、ただ祈るしかありませんでした。イエスさまが遺してくださった言葉にすがるようにして、ひたすら祈るだけでした。

 そしてついに沈み込んでいた彼らに聖霊が注がれたのです。「自分はなさけないダメ人間だ」と悲しんでいた弟子たちに、「君たちはかけがえのない人なんだよ」「私は君たちを愛しているよ」と励ましてくれるような、新たな生きる力が注がれたのです。沈みきった弟子たちの心に、聖霊は前を向いて生きるという生命の風を吹き込んだのです。友を愛する力、主を愛する力を再び彼らの中に注ぎ込んだのです。新たな力を得て弟子たちは大胆に歩み始めていきます。小さな存在が神さまからの力を得た時、ダイナミックに用いられていく新たなドラマが始まるのです。私たちは本当に小さな存在です。でも神さまはその小さな存在を愛してくださり、様々な働きへと用いてくださるのです。

 ペンテコステの出来事のモティーフは「風」です。風が吹くと何かが起こるのです。ドラマが始まるのです。風を受けた時、人は前に向かって歩き出します。物語の始まりにはいつも風が吹いています。ディズニーのミュージカルで有名になった「メリーポピンズ」という児童文学がありますが、東風が吹くとロンドンの街にメリーポピンズが現れ、わくわくするようなドラマが始まります。遠い外国の話だけではありません。ドドドドードと風が吹くとその風に乗って風の又三郎が現れます。かつてボブ・ディランも「風に吹かれて」と歌いました。

 もちろん聖書もそうです。聖書の一番初めの創世記、風が吹くことによって天地創造のドラマが始まっていくのです。風を感じ、風を受け、力を得て全てのものが動き始め、歩み始めるのです。旧約の代表的人物であるヨシュアは「あなたと共にいる」という声に支えられ、神さまの励まし、神さまの息、風を受けて新たな出発をしました。私たちの人生も同じです。私たちが行き詰まった時、神さまは私たちに風を送ってくださり、前に向かって押し出してくださるのです。私たちはその風を感じ、それを受け、それに心も身体も預けた時、新たな旅立ちへと押し出されるのです。風に吹かれた時、私たちは神さまの恵み、力、豊かな教会形成への促しを感じます。神さまが送ってくださるさわやかな風の中で、私たちはイエスさまとお会いできるのです。主の風に全てを委ねて歩みましょう。