教会だより

No.64  2021年3月21日

仕えることの幸い

牧師 石田 透

 
イエスさまがご自分の死と復活を予告された直後の弟子たちの反応です。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」(マルコ一〇章)
 イエスさまは仕えること、奉仕することを私たちに教えます。でも人間の現実は奉仕されることを求めます。私たちは弟子たちの姿を見て情けないと思いますが、私たちもまた弟子たちと同じような身勝手さを持っています。
 本当の奉仕はそれをすることによって、自分自身が消耗していくような厳しさを伴っています。イエスさまの十字架が奉仕する、仕えるということの深みと重みを私たちに示します。イエスさまの受難を考えると、本当の奉仕を全うすることは私たち人間には不可能なのかもしれないと思います。私たちはただ十字架の前に立ち尽くすだけなのかもしれません。しかし、主の十字架から逃げ出したい思いと必死に戦い、居たたまれなさを抱えながらもじっと十字架の傍らに立つうちに、私たちは不思議な平安へと導かれるのです。
 「仕える」と言う言葉は元々は食卓の給仕を意味していました。そして給仕は奴隷の仕事でした。奴隷はひたすら主人のために仕えます。給仕は食事を作る人、調理人と主人の間をつなぐのです。イエスさまはご自分のことを「私は世に仕える為に来た」とおっしゃいました。神さまと人々とをつなぐ給仕として来られたというのです。ではイエスさまは実際どのような人に仕えたのでしょうか。イエスさまが仕えたのは支配者や権力者ではなく、豊かな人々とは全く正反対の人々に仕えたのです。イエスさまが仕えた人は数に入れられなかった人々、囲いの外側に追いやられた人々、罪人というレッテルを貼られた人々です。彼らの声に耳を傾ける人はいませんでした。彼らの痛みに共感する人もいませんでした。彼らのために神さまに祈る人もいませんでした。彼らの叫びは誰の心にも届かず、虚しく宙に響きます。しかしイエスさまは彼らの叫びやうめき、必死な祈りを、涙を流しながら聞いたのです。そして彼らの許を訪れ、彼らに御国の救いを宣べ伝え、癒し、慰め、祈ったのです。そのようにして地の底にあえいでいた人々に仕えたのです。
 ヤコブとヨハネの抜け駆けに対して腹を立てた他の弟子たちは出し抜かれたことに不快感をあらわにします。権力欲や支配欲はだれもが持っています。そして支配者に虐げられている者は、自分より弱い者を見つけ、今度はその人たちを支配するのです。この世を生き抜くためには強い力が必要だ、そうしなければ生き残ることなどできないと考えるのです。やがて人と人との間には深い溝が掘られ、お互いの関係は冷え切り、破綻していきます。人と人との関係だけではありません。神と人との関係も破綻していきます。
 しかしその破綻したまさにその場にイエスさまが降り立ってくださるのです。神と人、人と人とをつなぐ給仕として、この方はこの世界にお出でになったのです。イエスさまは自らが仕えることを通して破れの中に会った人々をつないでいきます。そして人々に新しい生き方を共に始めようと語りかけるのです。しかしこの全く新しい生き方はこの世では理解されません。一緒に歩んだ弟子たちにも理解されません。イエスさまはこの世から捨てられ十字架に架けられてしまいます。でもなおもこの方は十字架の上から、ご自分の十字架の苦しみを示しつつ、仕えることの幸いへと全ての者を招くのです。