主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2025.04.27)


「ともにおられる主」 木村拓己牧師


マタイによる福音書28章11節-20節

 キリストの復活後の物語が続きます。復活の主に出会った女性たちは、天使に言われた通りに弟子のもとへ走っていきます。時同じくして、番兵たちも祭司長たちに報告に戻ります。祭司長たちは多額のお金を渡して口封じをしました。イエスを墓に閉じ込め、復活してもなおその存在を隠す姿です。
 しかし、そんな人の思いを打ち破って、福音書はクライマックスを迎えます。イエスの生涯は十字架と復活の出来事を経て物語は終わります。しかし同時に、教会という新しい物語が始まろうとしています。すなわち、主の復活を宣べ伝え、救いを告げ知らせる働きが生まれようとしているのです。そこに主がともにおられることが今日の物語です。
 イエスに教えられたこと、気付かされたこと。聖書を読む自分自身が考える事柄であると同時に、「教えなさい」という言葉に表されるように、誰かと分かち合うべきものであることが語られています。ここにいる私たち一人ひとりが、未来に向かって真剣に取り組むよう促されているのです。
 17節には弟子の疑う様子が描かれます。「しかし、疑う者もいた」と読めば、弟子のうち数名という印象を受けます。しかし原文のギリシャ語では、読み方によっては全員を指すとも受け取れるようです。つまり、復活のイエスに出会って信じる自分がいる一方で、疑ってしまう自分もいるという理解ができます。
 信仰とは、私たちの日常と礼拝、あるいは信頼と疑いを結び合わせるものなのかもしれません。人間である私たちの日常があり、そこに疑いがいつもあるのではないでしょうか。だからそれまでの自分の歩みを一旦止めて、新しく神と共に歩み始めるのです。そこには当然苦難が訪れることもあるでしょう。神への疑いを感じざるを得ない状況に陥ることもあるでしょう。そんな時にこそ、洗礼を受けた現実、自分が何によって立ち上がっていくのか。何に基づいて苦難や試練に向き合っていくのか。その柱として洗礼の出来事を思い出したいのです。向き合おうとするところで生きてみようとする時に、信仰者として生きることを決断した洗礼の出来事は大きな支えとなるのではないでしょうか。
 不思議なことに、マタイ福音書だけが、イエスが弟子たちにガリラヤまで会いに来るように命じています。マルコとルカ、そしてヨハネ福音書に共通していることは、復活のイエスから弟子たちを訪ねたことです。マタイだけが、弟子たちがガリラヤの山の上で待っている復活のイエスを訪ねたのです。
 それは、ガリラヤに弟子たち自らの足で赴くことが強調されているからではないでしょうか。十字架にかかる主を見届けることも、助けることもできなかった弟子たち。見届けられなかったまま、助けられなかったままを生きるしかなかった弟子たちにイエスは向き合っています。3つの福音書は、弟子たちを訪ねる主の姿です。一方のマタイでは、弟子たちが勇気を出して復活のイエスを訪ねることを待ち続ける主の姿なのではないでしょうか。
 復活の主は私たちを待っていてくださるのです。今のあなたが勇気を出して向かったその先で。 空っぽの墓は、主が出かけていかれたしるしです。私たちがこれから赴く先で待っていてくださるというしるしです。こうして私たちとともにおられる主をマタイは描いたのではないでしょうか。
 弟子たちは自らの足で山に登り、復活のイエスに出会いました。疑いながらも、主に出会おうと歩き出したのです。私たちも新しい一週間へと出かけていきます。意気揚々と向かう方もいれば、不安や緊張の中で陰りのある方もおられることでしょう。しかし私たち一人ひとりが赴いた先に復活の主は待っていてくださる。ともにおられる主(インマヌエル)を喜び、弟子たちがそうであったように、復活の主によってこの世へと遣わされていきましょう。