聖霊降臨節第2主日(三位一体主日)礼拝説教(2026.5.31)
「神の相続人」 ローマの信徒への手紙 8章12節-17節
小林 恭平 牧師
本日は三位一体主日を覚える礼拝です。三位一体とは、私たちの信じる神が父、子、聖霊の三つの位格(顔)を持っているという意味です。そうは言われてもそのことを私たち人間が理解するのは非常に難しく、神はそもそも人知の及ばない存在であるということなのかもしれません。そんな父なる神、子なる神、聖霊なる神の中でも、聖霊については、非常にとらえがたく、また時として誤解も生むものかもしれません。使徒言行録では、聖霊はペンテコステで弟子たちの下に送られ、弟子たちに異国の言葉で話させるという不思議な業をなさせました。では、聖霊は何か不思議なエネルギーやパワーのようなものなのかと言えばそういうわけでもありません。
聖霊にも父なる神や子なる神のように意思があり、私たちの間におられ、私たちの助け主として働かれます。それは、私たちに神を信じようと思う心を与えたり、聖書を通して語り掛けられる神の言葉を理解する知恵を与えたり、困難や孤独の中にあって慰めと勇気を与える存在であるのです。そのことは、聖書の様々な個所で論じられていることですが、ローマの信徒への手紙8章でも、使徒パウロは、これらとはまた異なった視点から聖霊について論じています。
12節では、「私たちには一つの義務があります」とあります。この義務という言葉は、ギリシア語ではオフェイレテースという言葉が使われており、本来の意味は債務者すなわち金銭的な負債を負っている者を意味します。債務者が果たすべき義務とは借りたお金を返すことです。しかし、もし返済を完了することが出来なければどうなるのでしょうか。古代ギリシアにおいて、借金を返せなかった者は、自身を財産として債権者に明け渡す必要があり、それは奴隷になるということでした。
つまり、「肉に対する義務」というのは罪の奴隷であるということを意味します。私たちは、本来罪の奴隷でした。罪、すなわち神から離れる思いに捕らわれ、神に背いて生きるほかなかったのが私たちだったのです。その行きつく先は死です。この罪の奴隷状態から解放されるには、私たちは自信を買い戻すほかありませんでした。
しかし、そこから解放してくださったのが、イエスでした。イエスは、たった一回の、されどとてつもなく重い代価をもって、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。それが十字架の死だったのです。罪から解放された私たちは、晴れて自由の身とされているのです。ならば、もう私たちは罪にとらわれることなく生きることが出来るはずなのに、現実はそうではない。人類は争いをやめることが出来ず、キリスト者である私たちですら、時に神に背いて生きてしまいます。
それは、私たちが罪から解放されてなお、罪の下から離れられずにいるからです。奴隷身分から自由になった解放奴隷は、実はそのあとも元主人のもとで身元保証人として保護を受けたと言われています。また、その元主人の雇人として改めて生きた者も少なくありません。元主人との縁を完全に経って生きることは困難だったと考えられます。
私たちもまた同様です。罪から解放され、どこにでも行く自由はあるはずなのに、いまだ罪の下で生きようとしてしまう。それは、それ以外の生き方を知らないからであり、あるいはそう生きざるを得ない弱さを抱えているからなのです。それが罪の解放奴隷である私たちなのです。
そんな私たちに対し、神はただ、奴隷身分から解放しただけではなく、私たちをご自身の下に引き取ろうとされているのです。その助け手こそが、聖霊なのです。聖霊は、私たちを神の下に導くだけでなく、神の下でその身分を保証してくださります。その身分は、奴隷や雇人のような主従関係の身分ではありません。なんと、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことのできる身分、すなわち神の子どもの身分なのです。それは、キリストの義理の兄弟になるということであり、子として十全に愛を受け、そして終わりの時にはキリストの共同相続人として、永遠のいのちを受け継ぐものとなるということなのです。
私たち一人ひとりもまた、聖霊の導きによって、教会に集っているのです。その導きの最終地点は、神の御許です。私たちのこの地上での歩みの終わりは、いのちの終わりではありません。むしろ、その先にある天上のいのちの始まりです。そこで、私たちは再び顔と顔を合わせて会い、そして、主なる神と顔と顔を合わせて会うのです。私たちは、永遠のいのちを受け継ぐ、神の相続人です。いつか来る希望を胸に、その時を待ち望みつつ、今を過ごしてまいりましょう。
