主日礼拝説教(2025.11.9)
「手も心も神さまに向けて」 ヤコブの手紙 2章14節-17節
木村拓己 牧師
今日は子ども祝福礼拝です。原宿教会と原宿幼稚園につながる子ども一人ひとりのことを覚えて、近くで支え助ける大人の方々も覚えて祈りを合わせます。うまくできる日もできない日も、いつも神さまが毎日を助けてくださることを感謝する日です。
今日の聖書は神さまを信じる気持ちと、神さまのお仕事をお手伝いすることのお話です。着る服がない人、今日食べる食べ物がなくて困っている人がいたとします。その人たちに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい。」と話してあげるとします。とても優しい言葉ですね。
「安心して行きなさい」という言葉は、イエスさまが出会った人に話された言葉です。イエスさまが出会ったその人は、上手に生きることができない悩みを抱えていました。失敗したり、お友だちと仲良くできなかったり、食べる物がなかったり…。イエスはその人と一緒にいて、そして「安心して行きなさい。」とおっしゃいました。「あなたが生きていくこれからの道に、私の祝福をいつも備えます」という約束をイエスさまはしてくださったのです。
自分の大切な気持ちは、まわりの人にはわからないかもしれません。でもイエスさまだけは知っていてくださるとも私は思っています。そのイエスさまが「安心して行きなさい」という言葉を思い出したいのです。
安心できない時も、緊張する時も、無理しなくていいのです。まわりに人がいても、にぎやかな音が聞こえても、静かに目をつぶって、神さまが近くにいてくださることを思い出しましょう。神さまが近くにおられることを思い出して、心を落ち着けてほしいなと思います。
パウロさんという人は、神さまを信じる心が大事だよと言いました。今日のヤコブさんという人は、神さまを信じる心を持つ人は自然に誰かのために行動するよ、と話します。そうじゃないならば、神さまを信じているとは言えないと思う、とも考えました。
パウロさんとヤコブさんの考え方は違うように聞こえます。私は、二人とも大切なことを話した人たちだと思っています。外国の人や、神さまをまだよく知らない人は、礼拝のやり方がわからなくて間違えることがあるでしょう。みんなもお祈りって難しい、恥ずかしいとも思うかもしれません。
パウロさんの時代、上手に礼拝できない人に対して、そんなんじゃダメだと文句を言う人がいました。しかも、とても神さまを信じている人だったのでした。そこでパウロさんは上手にできたかどうかじゃなくて、神さまを信じる心が大事なんだ、と言いました。外国に人や神さまをよく知らない人たちを守ったのだと思います。
一方でヤコブさんは、同じ教会の中にいる人たちに話しています。神さまを信じてすてきな言葉を話すのはとっても良いと思う。でも教会の外で困っている人たちを知らんぷりして、家に帰ってしまうのは、神さまは本当に喜んでいるのかな、と考えたのだと思います。
神さまを信じる人はいつも動いているとも言えます。讃美歌やお祈り、礼拝をします。「悔い改める」ことも礼拝の中で私たちはしています。自分の生きていく道が、もし神さまから離れてしまっていたら、神さまの方に体を向き直して、もう一度生きていくということです。毎週の礼拝の中で神さまの方に向き直しているのです。
確かに、私たちはいつも神さまのために動いているわけではありません。普段は自分の好きなことをしたり、しなければならないことを頑張りながら、あー疲れたと毎日を過ごしています。同じ毎日を過ごしているようでも、そこで何かは起こるのです。
お友だちが悲しんでいる。おうちの人が困っている。出かけている途中で助けを必要とする人がいる。知らんぷりをしようと思えばできます。自分のことじゃないから困るわけではありません。自分だって大変なんだと言うこともできるでしょう。
もう一度神さまの言葉を思い出したいと思うのです。「安心して行きなさい」と話してくださる神さまは、私たちが動けないときに、近くで慰めてくださる方です。心を落ち着けて、立ち上がってもう一度頑張ろうという気持ちにしてくださる方です。
イエスさまはこんなこともおっしゃいました。まわりの人が自分の良い行いを見て、神さまに気づくことができるように生きていきなさい、とおっしゃいました。誰かのために動く力もあなたの心に入れておいたよ、だから安心して行きなさいと言っておられるのではないでしょうか。
手も心も神さまに向けて、神さまのお仕事をお手伝いしたいと思います。「あなたが生きていくこれからの道に、私の祝福がありますように」と神さまの約束を胸に、不思議な出会いが起こることを楽しみに、今週も神さまと出かけていきましょう。
