主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2025.12.21)

「人の目に隠された主」  イザヤ書 52章7節-10節

木村拓己 牧師

 クリスマス総員礼拝を迎えました。クリスマスはイエス誕生の時です。イエスさまが寝かせられたのは飼い葉桶だった、と聖書は語ります。王から住民登録の命令が出され、身重の体でマリアとヨセフは旅をしなければなりませんでした。みんなが大移動していますから、当然宿屋はいっぱいなのです。そんな時に母マリアは出産を迎え、生まれたばかりのイエスは飼い葉桶に寝かされるのです。
 出産はいつ、どこで起こるかがわからないものです。その日その時は、母マリアでさえわかりません。私たちの手によって決して動かされることのない世界がここにあります。それがクリスマスの出来事です。
 旧約聖書は救い主を待ち望む預言について書かれています。新約聖書はその救いの成就の歴史が書かれています。ですから、私たちは既にクリスマスに何が起こるか知っています。しかしクリスマスは長い時間をかけて主を覚える日々の果てに祝われる出来事です。
 なぜ国は滅びなければならなかったのか。捕囚の民として、奴隷の日々を送らなければならなかったのか。神は私たちをお忘れになったのではないか。今の私はどんな歩みであるか。世界はどうなっているか。思い巡らせる日々を経て、私たちはクリスマスを迎えるのです。
 いかに美しいことかと始まる今日の聖書。福音が伝わっていくさまを表すのに「足」が注目されていることはおもしろいですね。リレーのように声が伝えられて行くのです。伝えられた声とは平和であり、恵みの良い知らせであり、救いなのだと、言葉を重ねて語られています。
 見張りは本当にそんな救いの時がやってくるのだろうかと、待つのに疲れていたかもしれません。長い間理解することができず、信じることができなかったことが、今や目の前に届けられた喜びとなるのです。良い知らせを伝える者の喜びの声、それを見つけた見張りの声、そして全体の歓声、喜び祝う声へと広がって行くのです。そこに大きな慰めと贖いがあるのです。
 よく読めば廃墟が合唱しています。実はそこに残された者たちがいたということです。離れ離れになってしまった家族の絶望、滅ぼされて廃墟となった街の復興を目指すも、疲れ切っている民の絶望が、希望へと変わる瞬間なのです。
 王の子どもが生まれることは王国の繁栄、後継の確保を意味します。兵士が走り回り、国民こぞって喜ぶお祭り騒ぎです。しかしイエスの誕生はそうではありません。人の目には隠され、ひそやかに世に来られたイエス。
 羊飼いと博士、ベツレヘムの町で静かに語られた喜びの知らせ。それは互いに見つめ合える近さです。主が来られたのは私たちの只中であり、私たちの日常にこそ主は来られたのです。何より誰かと分かち合うところにおいてこそ、本当のクリスマスの喜びがあるのではないでしょうか。
 この時、一人でいる人に、入院している人に、私たちは遣わされていきます。伝えるだけではありません。そこで時間を共にし、会話を共にし、食事を共にし、思いを共にするのです。それこそが、私たちが神に召し出されている働きに他なりません。
こうして小さな温かさが世に広がって行くのではないでしょうか。その広がりは、大きなうねりとなって愛と平和への働きへと向かって行くのではないでしょうか。クリスマスおめでとうございます。