主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2026.3.15)

「どう言えばよいのか、わからなかった」  マルコによる福音書 9章2節-10節

木村幸 牧師

 今日の箇所を理解するのは難しい。地上を歩んで生きたイエスは、ここに至って人の世界を飛び越えた神秘的な様相を弟子たちに見せる。舞台は高い山の上、モーセとエリヤと思しき存在との対話である。
 ユダヤの人々にとってモーセという預言者は、特別な存在だ。彼が授かった十戒こそが、彼らの神と人々とをつなぐ絆であり、救いを約束された証だった。そしてもう一人、ユダヤの人々が重要視した預言者は、列王記に登場するエリヤだった。彼だけが、死なずに天に上げられた預言者であると考えられていたからである。この預言者たちも山の上で神の啓示を受けたと伝わっており、この出来事は弟子たちにもまさにその伝説を想起させるものだった。
 メシアの到来に先立って預言者エリヤが再来する。これがユダヤの人々の伝統的な信仰であった。そして今イエスの3人の弟子たちは、目の前にそのエリヤとモーセが、光り輝くイエスと共に語っているのを見ている。彼らはこの奇跡を人々に大声で告げたかったことだろう。しかしイエスは彼らに、山の上での出来事について、口外しないようにと言う。弟子たちはこの出来事を、十字架の死と復活を経て後に証言することを求められていたのだ。
 その口止めの根拠は、7節において雲の中から聞こえた、天の父なる神の声にも表れている。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
 かつてイエスがバプテスマのヨハネによって洗礼を受けた際、天から聞こえたという声は、彼自身だけに向けられたものだった。この時に至っては、彼が神の愛子であるという真理が弟子たちに向けても開かれている。そして「これに聞け」という言葉こそが、それに付随する最も重要な弟子たちの使命なのだ。私たちは真理に触れた時にこそ口を閉じなければならない。早まって語るのではなく正しく聞きとることを主は人に望まれている。
 ペトロは、どう云えばよいのか、わからなかった。この場面の中で正解だったのはこの部分ではないか。その畏れ多さ、心許なさ、震えてしまう自分の小ささ。ペトロたちがはじめに感じたであろうその思いこそが、崇高な存在に触れたときの人の真実に他ならない。
 何を云えばいいかわからない、という気持ちは私たちにとって真実であるが、それでも私たちは何をなすべきかを考えねばならない。御心が私たちに何を望んでいるか、耳をすまさねばならない。今現在も、世を見れば言葉を失うようなつらいニュースばかりだ。胸を痛め、涙を流しながらも、私たちはまだまだ耳を澄まし、この受難節の日々を歩み通すのである。