主日礼拝|今週のみことば

  聖霊降臨節第7主日礼拝 説教(2026.7.12)

「何度でも」  マルコによる福音書 8章22節-26節

小林 恭平 牧師

 福音書には、イエスがさまざまな病に苦しむ人々を癒された出来事が記されています。その中に、目の見えない人を癒された奇跡があります。マルコによる福音書には二つの盲人の癒しがあり、一つは本日のベトサイダでの癒し、もう一つはエリコの町にいたバルティマイの癒しです。
 この二つの物語には違いがあります。エリコのバルティマイは自ら「わたしを憐れんでください」と叫びますが、ベトサイダの盲人は人々に連れられてイエスのもとへ来ます。また、バルティマイは群衆の前ですぐに癒されますが、ベトサイダの盲人は村の外へ連れ出され、二段階を経て癒されます。
 この段階的な癒しは、聖書の中でも極めて珍しいものです。イエスはまず盲人の目に唾をつけ、両手を置かれました。すると彼は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えます。見えるようにはなりましたが、まだぼんやりとしか見えていません。そこでイエスがもう一度その目に手を置かれると、今度はすべてがはっきりと見えるようになりました。
 聖書において「目が開かれる」とは、身体的な視力の回復だけでなく、心の目、霊の目が開かれることをも意味します。そのことを象徴的に示しているのが、使徒パウロの出来事です。
 パウロはかつて、キリスト者を迫害する者でした。それは彼の目にはキリスト者が神や律法を冒涜する者であると映っていたからです。彼は「自分は神と律法に忠実である」と信じ突き進んでいました。しかし実際には、「自分の正しさ」に心を奪われ、神が何を望んでおられるのかを見ることができなくなり、罪の道を歩んでいたのです。そのパウロは、復活のキリストと出会い光に照らされたとき、ついに目が見えなくなります。しかし、主に遣わされたアナニアによって再び見えるようにされ、同時に霊の目も開かれました。そして、それまで迫害していたキリストを宣べ伝える者へと変えられたのです。
 キリスト教における罪とは、倫理的に悪い行為だけを指すのではありません。それは本質的には、神から目を逸らし、神という目標から外れて生きることです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを忘れ、自分の思いや世の価値観だけに従ってしまうことです。日曜日には神を礼拝していても、日常生活では神を心の片隅に置き、自分の力だけで生きようとすることがあります。また隣人を愛するよりも、自分の正しさや都合を優先してしまうこともあるかもしれません。
 私たちは主によって赦され、弱さも含めて受け入れられています。しかし、そのままでよいとは言われません。むしろ、主は私たちを愛しておられるからこそ、私たちも主を愛し、主が愛しておられる隣人を愛するとなってほしいと願っておられます。
 私たちが愛に生きる者となるプロセスにあるのが、霊の目が開かれる体験です。けれども、私たちの霊の目は、一度にすべてが見えるようになるとは限りません。そのことが本日の箇所における二段階の癒しに現れています。洗礼を受けても、世界が急に違って見えるわけではなく、特別な霊的体験を感じないこともあります。それでも信仰の道を歩み続ける中で、自分の人生に主が働いておられたことに気づかされる時があります。御言葉を聞き、祈り、礼拝し、人々と共に歩む中で、これまで見えなかった主の恵みが少しずつ見えるようにされていくのです。
 また、この盲人は、人を「木のようだ」と認識しています。そのため、生まれつき目が見えなかったのではなく、かつては見えていたものの、次第に視力を失った人であったとも考えられます。私たちの信仰にも、同じことが起こります。かつては神を近くに感じていたのに、その感覚が薄れることがあります。かつては主の愛に満たされ、隣人を愛そうとしていたのに、いつの間にか心が冷えてしまうこともあります。主を愛するとはどういうことか、分からなくなることさえあります。
 それでも、主は何度でも私たちの目に触れてくださいます。一度目が開かれた後、再びかすんでしまったとしても、主は私たちを見捨てられません。すぐにはっきりと見えなくても、繰り返し触れ、主を仰ぎ見ることのできる目を与えてくださいます。
 何度でも主に触れていただき、霊の目を開いていただきましょう。そして主を見上げ、その愛を深く味わいましょう。主の愛に満たされ、そのあふれる愛をもって、主を愛し、隣人を愛する者へと変えていただきましょう。