復活節第5主日礼拝説教(2026.5.3)
「生きた石」 ペトロの手紙一 2章1節-10節
木村 拓己 牧師
「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」そして「この主のもとに来なさい。」と今日私たちは招かれています。ここにはキリストの十字架と復活の出来事が示されています。この生きた石は私たちにとってかけがえのないものだと言われます。主によって新しく生きることを決心した人々に対して語られているからです。
「捨て去る」という言葉があります。元々は衣服を脱ぐという意味だそうです。昔の洗礼式は全身水に浸かる形で執り行われていました。社会的な地位がある人も、きれいな服を持っている人も、それまでの生き方を脱ぎ捨てるように、すべてを脱いで薄い衣で水に浸かったのです。ここでの捨て去るという言葉にも、やはり洗礼が念頭に置かれているのだと思います。
私たちの多くは主の御前に出る時と、そうでない時を使い分けて生きています。私たちの誰もがその実感を持っているがゆえに、ここで洗礼を受けた者も受けていない者も、意識的に自分を脱いで主の御前に出ることが勧められているのではないでしょうか。
そして生まれたばかりの乳飲み子にたとえられるように、自分を守るすべてを脱ぎ捨てて、混じり気のない霊の乳、すなわち御言葉を味わいなさいと言われているのです。きっとこの手紙を記した人は詩編34編に歌われる、「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」との御言葉を、何度も何度も口ずさんで生活したのではないでしょうか。
こうして主に養われる一人ひとりが集められて「霊的な家」が造り上げられます。イエスは生きた石であり、私たちもまた生きた石だと言われます。こうして主を中心に生きた石が積み上げられて、霊的な家となっていくのです。後半には選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民と書き並べられています。
神の選びと言われれば、制限される印象を抱きますが、キリスト教における神に選ばれた民とは、民族を超えて、特定の人々を超えた神の民です。制限ではなく、むしろ開放されているところに特徴があります。
開かれているとさまざまな人が入ってきます。それを嫌がる人々は、本来の神の選びの共同体という開かれた本質から離れて、制限した共同体を目指そうとしてしまうのかもしれません。しかし信仰共同体は、教会は、本来幅を持った場であり存在なのだと思います。しかし忘れてはならないのは、キリスト者とはキリストの苦難に与って生きる群れだということです。
居心地の良い場を目指しながらも、自分の人生に終始せず、世の嘆きと悲しみを見つめ、理不尽さのあるところで平和を求めてキリスト者として立つことができるか。そこに主の栄光を表そうとする歩み、他者を執り成す歩みを重ねていきたいと思うのです。
「聖なる祭司となる」ということはまさにそのことだと思うのです。キリストの十字架において、罪は贖われたことを心に留め、神の恵み深さに感謝して、自らを主の御用のために、誰かを執り成すためにその身をささげるのです。
生きた石とは単に息をしている、生存しているという意味ではないと思います。役割を終えた石ではなく、今なお役割を担う存在としての生きた石です。死んだように生きるのではなく、時間をもてあそぶのでもなく、変わらぬ日々を嘆くのでもないのです。
復活の主はこれまでもこれからも、永遠に主の栄光を表す存在です。そして私たちも主の栄光を表す生きた石として、主を賛美する生きた石として、その役割を担い続けているのではないでしょうか。たとえ世を去ったとしても、地上の私たちと天上の友たちは今日も共に礼拝し、賛美をささげている。それがキリストにおいて永遠なるものに触れる私たちの礼拝だと思うのです。
しかし大切なのは信仰共同体の内側だけではありません。むしろ神さまと誰かをつなぐ橋渡しだと思うのです。祭司という言葉は、ラテン語では「橋をかける人」という意味があると言います。生きた石であるキリストが私たちを導き、私たちもまた神のもとへと人々を導くのです。
その橋は自分が通るための橋ではありません。神のもとへ人々を導く橋です。私たちが初めて身を寄せた教会にも、神さまに出会った時にも、信仰へと招かれた道にも、生きた石が息づいていたのではないでしょうか。世を見つめ、祈りと行動によって執り成す生きた石として、これからも歩んでいきたいと願うのです。
