主日礼拝|今週のみことば

永眠者記念礼拝 説教(2026.11.1)

「主の光に包まれて」  ルカによる福音書 11章33節-36節

木村 拓己 牧師

 ともしびとは暗闇を照らす光であり、見つめる者に不思議と温かさと穏やかさを届けます。創世記には、「光あれ。」と神が宣言した天地は混沌から創造の秩序へ進みます。ヨハネによる福音書では「光は暗闇の中で輝いている」と、世の混沌の中で確かな光としてあり続ける神の救いのイメージが加わるでしょう。
 そんなともしび、光について記されている今日の聖書です。この光とは、キリストにおいて明らかにされる神の栄光です。「入って来る人に光が見えるように」(33節)とあるのは、新たにイエスに出会う人を指すでしょう。永眠者記念礼拝という場では、召天者を覚えて礼拝に集うお一人おひとりを指しています。
 イエスの言葉を受け取った人の反応はさまざまです。ある人は驚き、ある人は喜んで受け入れ、ある人は賛美しました。一方、ある人は批判的に聞き、ある人はその証拠を欲しがりました。イエスの言葉を素直な心で聞くことができているかが問われています。
 心は固くなります。皮膚にマメができるように、初めは痛みを伴っても、慣れるにつれて痛みとして感じなくなります。大人になるにつれてちょっとしたことでは驚かなくなります。
 死者の弔いもそうであるのかもしれません。それは遺された者たちに委ねられています。医療の発達によって、突如起こる死よりも、見通しのある死の比重が大きくなってきました。それが長期にわたる場合、支える家族も当然疲れを覚えます。そうした中で、葬儀が小規模かつ個々人の儀式となりつつあります。
 キリスト教葬儀は第一に死者を神に委ねること、そして第二に残された人々への慰めと支えを神に求める礼拝です。信仰者の地上での最後のともしびとは、家族や友人を主に導くことだと思います。そのともしびに導かれて、私たちはこのところで主に出会い、礼拝するのです。それは失った家族を大切に思い、その家族が大切にされた神さまに出会うことです。そして教会員も共に棺を囲み、教会が残された家族や知人の歩みを見守っていく。今日を生きる者同士も互いに言葉をかけ合いながら、悲しみから回復へと歩んでいく。それが教会という信仰共同体の大切な営みなのではないでしょうか。家族だけでなく、教会で葬儀をあげることの意味が再確認されねばならないのかもしれません。
 今日の聖書は、私たちが内なるともしびを宿していることを前提として語ります。神は一人ひとりを招いておられるからです。最後の「全身は輝いている」(36節)という言葉だけは未来形です。「私たちの歩みの先で、私たちは主の輝きに包まれるでしょう。」という意味になります。
 「これからはあなたたちがイエスを見つめ、世を見つめ、歩んでいって欲しい。」それが先に信仰者となって歩む者の願いであり、その思いを抱いて主の御許へと召された信仰の先達を覚えて、私たちは礼拝しているのです。「永眠者記念礼拝」をささげるこの時、その交わりを心に刻み直したいと思います。
 あなたをともしびにたとえるならば、あなたの目がそれである。人はあなたの目を見る。だからイエスにおいて示された福音に対して目を伏せることなく、閉じることなく、生きていきなさい。「主の光に包まれて信仰者として歩みなさい。」との主の招きではないでしょうか。
 ここが主の御前であることがわかるように、自らがともしびとして私たちをこの場へと導いてきてくれた信仰の先達一人ひとりに想いを受け取りましょう。そして信仰者のともしびによって道を示されている者として、主に導かれる群れとして、これからを歩んでまいりましょう。