この章で瓦礫の山となっている都は、バビロニア帝国の都バビロンだと考えられている。しかし預言者イザヤの生きた南ユダ王国は最終的にこのバビロニアに滅ぼされてしまう。ここに約400年続いたダビデの王国は終焉を迎え、エルサレムの都は陥落し、大切な神殿も完全に破壊されてしまった。これはユダヤの民にとって深く大きな絶望だった。ここからのいわゆるバビロン捕囚、強制移住そのものが彼らにとって本当の悲しみではない、いつか帰るべき故郷がもう無いということが絶望だった。
とすれば25章の預言は的外れではないかという評価にも至る。弱い者の砦は打ち砕かれた。暴虐な者たちは鎮められるどころか全てを奪い去った。しかしこの箇所以前にイザヤ書では序盤からエルサレムとユダに下る裁きも預言されていた。悲しいかなそのとおりにダビデの王国は滅びたのだ。
とはいえ、その頃に絶望した民の誰が、何千年を経た時代に異邦人らがユダヤの民の歩みを思い起こす未来を想像し得ただろうか。同胞たちがばらばらに連れ去られ、帰る場所さえ失われた時に、いつか世界中に同じ神を信じる同胞が与えられ、神を讃える教会が増え広がる日が来ると、考えたはずもない。
これを神の驚くべき御業と呼ばずして何と呼べるだろう。人の思い描いた望みとは異なっても、御神のご計画は想像もつかない時と形に進められていく。歴史の中で誰が主なる神を拒絶したからといって、預言者の言葉を否定したからといって、いまの私たちが主を讃えるようになるのを止めることができただろうか。神を信じる民は時を超えて生き延びたのだ。
イザヤ書25章の預言はまだ成し遂げられていない。しかし私たちは、何千年前の神の民と同じ故郷、主の御国に帰ることを夢に描いている。この地上のどこにもない、未だ見ぬ故郷に帰るべきは誰なのかと考える時、それはユダヤの民に限られるのではない。まして世の強者や常に正しい者でもない。弱く、貧しく、苦難に遭うものがそれに与るのだとイザヤは伝えている。主イエスも後に伝えたように、貧しい者、悲しむ人々、迫害される人々は幸いであると。
私たちの人生においても、決して望んではいなかった悲しみ、苦難、弱さがあった。しかし後から振り返った時に、それらがあったからこそ、いま神様の御言葉に懸命に聞いている自分があると気づく。それはいつか望んだ未来ではなかったかもしれないが、驚くべき御業は、今ここにも、そしてこの先のいつかの時にも繋げられている。何の確約も保証もなくとも、自らが信じた道を歩みたい。