主日礼拝|今週のみことば

  復活節第7主日礼拝説教(2026.5.17)

「最後の祈り」  ヨハネによる福音書 17章1節-13節

木村 幸 牧師

 

 イエスはその全てを福音書に描かれることはなくとも、日常的に祈りを捧げていたことだろう。それは彼にとって欠かせない、父なる神との対話だった。しかしとりわけここに仔細に祈りの内容が残されているのは、これがイエスの十字架に向かう前、最後の、特別な祈りだったからだ。
 と言いつつしかしこの箇所は、後世の創作であるという事実は、聖書学の中ではあまり異論を挟まれない。この祈りは福音書記者とされるヨハネの思想の元に集った初期キリスト教集団(俗にヨハネ教団と呼ばれる)が彼らにとっての信仰が集約された祈りである。つまりその人々の信仰告白としてまとめられたものであると考えられている。
 「イエスの祈り」といっても後世の創作ならば偽物に過ぎないという人もあるかもしれない。しかし言うなればこの祈りは、主を想う人々が後で振り返った時にわかった真実なのではないだろうか。
 例えばその時はただつらく苦しく、わけもわからないうちに過ぎていった時期や出来事が、時が経って振り返ってみると、改めてその意味が見出せるというようなことが、誰の人生にもある。
 ヨハネ福音書記者をはじめ、主を信じた人々が、主の言葉を拾い集めて一生懸命考えた時、あの時のイエスの祈りは、御心は、こういうことだったのか、とやっとわかった。それが、ヨハネ共同体の信仰告白としてのこの祈りであり、その人々が見出したかけがえのない真実なのだ。
 主を懸命に信じる人が、時間をかけて向き合って悩み、考え、なんとか言語化した祈りは、史実かどうかという基準だけで他者に評価されるべきものではない。はるか昔に主の御心を憶えて残されたこの箇所の言葉は、時代を超えて信仰者に語りかける力と意義を持っている。
 そして実は、この祈りに遜色なく、私たち一人ひとりの祈りもまた、主なる神にとっては同じだけ尊いのだ。それほどに私たちの祈りを待ち望んでおられる主なる神様に、果たして私たちはどれくらい、心からの祈りを日々届けられているだろうか。
 イエスの最後の祈りを丁寧に読みつつ、私たちならばいつか来る終わりの時に、自らの人生を振り返ってどんな真実を見出し、どんな祈りを口にすることだろう。それをすら一つの希望として胸に秘めつつ、まだなお続くこの地上の日々を大切に歩みたい。