「そんなのはいやだ!」 木村拓己牧師
マタイによる福音書 6章22節-24節
昔々高知県での出来事です。一人の子どもが出かけた帰りに電車賃を落としてしまいました。仕方がないので歩いて帰ろうと、遠い道のりをトボトボ歩きヘトヘトになった時、知り合いのおじさんと出会い、「あんパン」をもらって元気が出たそうです。その子どもは、やがて兵隊として戦争に行き、食べるものがなくて飢えて苦しむという壮絶な体験をしました。やがて漫画家として、生涯を全うするのです。
これは、やなせたかしさんのお話です。体験や思い出を下敷きにして生まれたのがアンパンマンでした。お腹の空いた人やしんどさを抱える人を助けるために飛び続ける。立場や国が変わっても、決して逆転しないヒーロー、それが「アンパンマン」なのです。
誰でも分け隔てないアンパンマンですが、ばいきんまんに対してだけは悪事の事情を聞くことなく退治してしまうことがしばしばあります。ばいきんまんの悪事の大半は「飢えて食べ物が欲しくなった時」と「ドキンちゃんが〇〇を取ってきて~と要求した時」です。どれほど善い心を持っていても、飢えれば悪事をするし、せざるを得ない状況では悪事にも加担してしまう人間の姿を表しているのではないでしょうか。
本日の聖書はシンプルな聖句が二つ並びます。「あなたの目は澄んでいるか」「神を愛しているか」という二つの問いです。体のともし火は目である。
「目力」という言葉も今日よく使われる表現でしょうか。昔から「目を見ればわかる」とか、「目は口ほどに物を言う」とも言います。実際、古代世界では「目線」には、特に負の感情を伴う視線には大きな力が込められると考えられていました。「邪視」とも言われます。古来より悪意ある視線に対抗することが真剣に考えられてきた歴史があるのです。そうした歴史の中でイエスの言葉も語られています。
「澄んだ」と訳されるギリシャ語は本来「寛大である」という意味です。また「濁る」という言葉は「惜しむ」という意味です。自分の思いによって偏らない目線、寛大な思いによって世を見つめているかということです。
続いて、神と富について語られます。「仕える」という言葉は、主人が所有権を伴う形での仕えるという言葉となります。つまり自由意志でお手伝いするという意味ではありません。自分の手の中にある富、あるいは手に入れたい富の奴隷として働くか、それとも神の奴隷として働くか、どちらを主人とするかという意味の強い文章となります。
「善行は神に見てもらうもの」だとイエスは語ります。「天に富を積みなさい」という言葉も同じです(マタイ6章)。これはお金のことを言っているのではなく、人から与えられる不安定な誉れや評価ではなくて、神さまから与えられるひっくり返らない恵みに目を向けなさい。そこに希望を見出しなさいとイエスは語るのです。
「できること」に自分の価値を見出す生き方はとっても大変なことです。「存在しているだけの自分」に耐えられなくなるのです。「存在するだけの自分」を大切に思ってくれる人たち(家族や友人、神さま)の存在に気づくことによって安心して挑戦したり、支えられて目標を持つことができるのだと思います。明るくなれるのだと思います。それを希望と呼ぶのではないでしょうか。
周りの世界をどのように見ているか。自分にどうプラスになる・ならないとか、自分を中心としたタイパやコスパで物事を見ていないか。一時は意味あるものかもしれません。しかし長い目で見た時にあなたの生き方にどんな影響を及ぼすだろうか。そうしたイエスの問いではないでしょうか。
キリストが背負われた十字架は、キリストが受けた傷は、このわたしを癒し、このわたしの恥を覆い、またそのことによって世を生かすことを、その時誰も知りませんでした。自分を生かす命に生きる人々の間で、世を生かそうとする命を生きた方がおられる。私たちは知らない者から知る者となっていきます。信じない者から信じる者となっていきます。キリストによって生きること、キリストによって世を生かす者となること、そのことを自分のうちに深めたいと思います。
「何のために生まれて、何をして生きるのか」という伯父さんから与えられた問いを長年抱いたやなせたかしさん。「答えられなかったり、わからないなんていやだ!」とアンパンマンの物語として、歌として、やなせさんは答え続けてきたのではないでしょうか。
歌やハンドベル、聖書の御言葉には変わらない美しさがあります。私たちの心を洗い、澄んだ心と目を与えてくれるものに助けてもらいつつ、自分自身の歩みに希望を抱いて歩んでいきたいと思うのです。