主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2026.2.1)

「心に思い浮かびもしなかったこと」  コリントの信徒への手紙一 2章6節-10節

木村拓己 牧師

 原宿幼稚園が属するキリスト教保育連盟の冬の講演会がありました。テーマは「キリスト教保育が大切に残していくべきものは何か」という問いでした。そこで興味深いことが話されました。それは、これからの子どもたちの半分ぐらいは「100年生きる」ということです。「100年生きていくために必要な力」を伝えることが必要なのではないか。キリスト教保育にはそれができるのではないか、という考え方でした。どんな時でも、うれしい時も悲しい時も神さまが共におられること、自分は一人ではないと知ることではないかということが話し合われました。
 先日厚生労働省が発表した2025年の日本の小中高生の自殺者数が過去最多人数を記録しました。高校生が過半数を占めます。問題は、原因がわからない死があまりに多いことです。約半数に上ります。つまり本人は死を選ばざるを得なかったにも関わらず、家族にも友人にも相談できなかったということなのです。
 死を選ぶまでに至らないにしても、それらの気持ちをなんとか飲み込んで崩れないよう、彼ら彼女らが今日の一日を生きるのだとすれば、100年を生きる力を伝える必要があるのではないでしょうか。「神は我々と共におられる」というメッセージをたゆまず告げ知らせていく働きが委ねられているのではないかと思うのです。
 パウロがコリントにたどり着いた時、身も心も疲れ果てていました。直前に訪れたアテネでは、それまでの自信や自負が全く通用しなかったからです。打ちのめされたパウロは、賢さをまとう説教ではなくて、ただただ十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えたのでした。
 ここで語られる知恵とは世の知恵ではありません。世の知恵の愚かさと、世の知恵に滅ぼされることのない神の知恵が十字架には息づいているからです。十字架はキリストを死に至らせ、世の知恵が勝ったように思われました。しかし、その認識は正しくなかったことが三日目の朝に示されます。再び立ち上がらせる神の力を、人は目の当たりにしたのです。
 相手に勝つことでしか満足できない生き方から離れて、自分の力でなんとかしようとする生き方から離れて、負けた先で再び立ち上がる生き方に出会わされるのです。それまで隠されていた、神秘としての神の知恵、それまで見ようともせず、聞こうともせず、考えようともしなかった生き方に出会わされるのです。
 神さまの御前に出る時、私たちが誇れる力はありません。それが世においては大きな力であったとしても、神さまに通用する力でも対抗できる力でもないのです。神の御前で身も心も砕かれて、等しく一人ひとりが主の御前で頭を垂れる。神の御言葉に触れ、それまでの自分の考えや生き方とは違う新しい一週間へと出掛けていく。それが礼拝です。
 それが100年生きるために必要な力、うれしい時も悲しい時も、神さまが共におられることを知っているという知恵、力なのではないでしょうか。それは、その人自身の力では立ち上がることができないかもしれません。しかし神の助けを得て、「もう一度やり直してみよう」と思える力なのではないでしょうか。
 原宿教会でも100年を生きていく力、御言葉によって根っこを形づくられ、神さまがいつも共にいてくださることを自分のこととして味わいたいと思うのです。そして心からの賛美を神さまにお返しいたしましょう。