聖霊降臨節第3主日礼拝説教(2026.6.7)
「澱むことのない祈り」 使徒言行録 4章23節-31節
木村 拓己 牧師
3章には足の不自由な男性が癒される奇跡物語があります。その奇跡がイエスの名において行われたこと、そして救い主イエスが死者の中から復活されたことを宣べ伝えていたことが問題視され、ペトロとヨハネは牢に入れられました。
祭司と神殿守衛長、サドカイ派の人々は、イエスが十字架にかけられた時、弟子は一人もその場で抗議さえしなかったことを知っていたのでしょう。無学な普通の人だったからです。にもかかわらず、裁判では大胆な態度で望んだことに驚かされます。「今後はイエスの名によって誰にも話すな」と脅すしか道は残されていませんでした。
こうしてペトロとヨハネが釈放されて本日の聖書につながります。ペトロとヨハネは祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話したとあります。4章19節には「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」との言葉があります。読み手である私たちに語りかけているようです。そして心を一つにして神に向かって声をあげます。今日の聖書は澱みなくささげられた祈りです。それは「大胆に御言葉を語らせてください」という祈りでした。皆が聖霊に満たされ、大地が揺れ動いたと括られます。神の御心であったしるしでした。
逃がして欲しいという後ろ向きな祈りではなく、さらに前に進もうとする祈りをささげる点は特徴的です。私たちが困難や助けを必要とする時に、まず心はどこに向かうでしょうか。ペトロとヨハネにとってはキリスト者の仲間であり、共に神を思い、そこから前を向いたのです。私たちもまた、祈りにおいてそのことをしっかりと捉えておく必要があります。世界があって神があるのではありません。私たちがあって神があるのではありません。
しかしそんな小さな一人の出来事であっても、当人にとってはとても大きな出来事です。たとえ一円玉でも目に被せれば、何も周りが見えなくなります。空に浮かぶ大きな月さえも、はるか遠くに立って距離をとれば、親指にすっぽり入ってしまうちっぽけなものとなります。
この距離感は往々にして私たちが陥る難しさです。どんな距離感でどこに目と心を向けて祈りをささげるのか。弟子たちは自分の手ではなく、弟子たちは天地の造り主に目を向けるところから、この世を見たのです。それが祈りなのだと言えます。
そしてイエスの十字架でさえ神の御手の外で起こったのではないのだと、詩編2編を引用して確認するのです(25〜26節)。だから権力者のどんな脅迫を耳にしても、意気消沈したり、落胆したり、不必要に恐れたりしないのです。どんな厳しい状況であっても、決して私たちは神の御手の外に置かれてはいないと信じているからです。
私たちはこのことを忘れてはならないと思うのです。私たちを飲み込もうとする苦難も痛みも悲しみも、私たちの前に立ちはだかる課題も困難も、決して神の視野の外にあり、神の力の及ばないところにあるのではないのです。だからこそ彼らは「思い切って大胆に、御言葉を語るようにしてください」と祈ることができたのだと思います。
聖書に描かれる物語は意味をつくり出していきます。それは教訓や教えという概念だけを伝えるのではなくて、私たちを行動へと向かわせるような意味が生まれていくのです。天地創造の「創る」という言葉は無から有を生み出す意味があります。先日読んだある文章には、絆創膏や満身創痍と書けば、「傷」を指す言葉となっていると言います。人が傷つき、傷めば、そこから何かが新しく始まる。創の字を作った先人はそう言いたかったのだろうか、と書かれていました。
今ある傷や痛みを超えて、その先に新たな物語が起こされていくことを主の御名によって大胆に祈り求めてまいりたいと思います。人一人の人生が神への賛美へと導かれていく物語が聖書に描かれています。内から変えられるように聖霊に導かれていく歩みを実感したいと思うのです。世を見据えて大胆に祈り、主の御言葉を宣べ伝える共同体として、前へと歩み出したいと思うのです。
