主日礼拝|今週のみことば

 聖霊降臨節第18主日礼拝 -敬老祝福礼拝- 説教(2026.9.20)

「贖いの捧げもの」  マルコによる福音書 14章10節-25節

木村 幸 牧師

 今日の箇所は、有名な最後の晩餐の場面である。ユダヤでは日没に1日が始まるので、食事のあと同じ日のうちにイエスは逮捕され、裁判にかけられ、マルコによれば午前9時に十字架に架けられ、1日が終わる前の午後3時に息を引き取ったということになる。この出来事が過越祭に起きることは、キリスト・イエスがまさに犠牲に捧げられる子羊そのものであり、その血によってすべての民の命が贖われることになるということを表していたのだろう。
 ユダの裏切りを予期していたイエスは、それを退けられたはずである。この場で事実を告げれば他の弟子たちがすぐユダを捕えただろうし、それ以前に遠ざけておくことも出来ただろう。しかしイエスは変わらず、食事を共にして皆と語り合っている。主はこのユダをも愛し、彼が罪を負う重さを思っていたからだ。
 過越祭と重ねられたこの場面には、三つの犠牲の姿が見えてくる。一つめは祭りの神殿の祭壇に監修的に捧げられている、傷ひとつない子羊。その子羊の如くに、贖いの捧げものとして差し出されるのは、罪ひとつない御子イエス。もうひとつの犠牲は、傷と罪だらけにされて、人の怒りを一身に負うユダの姿だ。
 「生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉を、憎しみを込めて避難した言葉として解釈してきた人々は、イエスの処刑を望んだ群衆と同じなのかもしれない。善良な市民の声を代弁するような顔をして、主を十字架に架けた罪をユダに着せている。自分の罪を転嫁して彼を憎んでいるのだ。私たち自身も、そのようにして来なかったか、問い直さねばならない。
 最後の晩餐に表されるのは新しい契約だとイエスは宣言する。主の体が割かれることも、血が流されることも含め、イエスの行動の動機、主の御心はすべて人々への愛だった。主はそれまでの人々の罪を赦すことのために、ご自身を贖いの捧げものとされたのではない。その後の人々の罪をも含めて赦すためだ。
 しかし赦されたとはいえ、人はいつまで主の愛に甘え続けているのか。いつまで他者に罪を求め続けるのか。それは捧げられた主の体を、血を、むしろ踏み躙っていることだと私たちは理解しているだろうか。
 私たちの主は、犠牲の捧げものを喜ばれる神ではない。血が流されることを望んでなどおられない。人が主を愛し、自らと隣人とをともに大切にすることを、何よりも喜ばれる方である。それが最も重要な掟であることを覚える時、私たちは、悪者探しではなく何をなすべきか、その答えは明白だ。獣の香りではなく、愛の香りが天に届くよう、来る新しい週にも努めたい。