聖霊降臨節第17主日礼拝 説教(2026.9.13)
「決意の愛」 申命記 15章1節-11節
小林 恭平 牧師
キリスト教を一言で表すなら何と答えるでしょうか。66巻にも及ぶ聖書の言葉を一言にまとめることなどできないかもしれません。しかしあえて答えるなら、それは「愛」です。これはイエスの言葉に基づきます。律法学者から「旧約聖書のあらゆる掟の中で最も重要なものは何か」と問われたイエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と答えました。この二つに勝る掟はほかにないのです。
旧約の律法は、神がイスラエルの人々を自身の民とするために与えられた契約でした。モーセの十戒に始まり、礼拝や食物に関する掟、財産や刑事・民事に関する掟、休日に関する掟など多岐にわたります。今日のユダヤ教徒はこの律法の契約を引き継いでいますが、私たちキリスト教徒はキリストにより更新された新たな契約のもとにあります。しかし律法は過去のものではなく、今に至るまで地続きの掟であり、その根本は何も変わっていません。神と私たちの契約の要は、神を愛すること、そして隣人を愛すること。すべての掟はこの二点に集約されます。だからこそ、私たちは「キリストの愛」を通して神の掟、ひいては旧約聖書全体を読むべきであり、本日与えられた箇所に記された掟もそのように読みたいと思います。
本日の箇所は「負債の免除」という副題が付けられています。貸し手は7年ごとの節目の年に、借り手の返済が完了していなくても負債をすべて免除しなくてはならないという掟です。いつ借りたかに関わらず暦の上で7年おきに免除の年がやってくるというのですから、なんとめちゃくちゃな掟だと思う方もおられるでしょう。しかもこの掟は、負債免除の年が近づいたからといって貧しい同胞への貸し渋りをしてはならないとまで命じています。
金融業界にお勤めの方なら真っ青になるような掟です。ここで貸し渋ってはならないとされているのは「貧しい同胞」、すなわち返済のめどが到底つかないほどの生活困窮者に対してです。貨幣経済は物々交換と比べ、お金を稼ぐ才能のある人のところに富が集中しやすく、貧富の格差を格段に生み出します。もちろん、富を得る人は相応の努力とリスクを負っているとも言えますが、生まれた家庭や環境、与えられた才能があったからこそという背景も見過ごせません。だからこそ、この掟で語りかけられている貸し主たちは、一時的に富を減らしても再び富を得るだけの回復力を持っているのです。それが6節で語られる「祝福」です。神は富を得ること自体を悪だとは言っていません。むしろそれは神の祝福です。しかし、その富を抱えながら助けを必要とする隣人に手を差し伸べないことがあってはならないと神は告げるのです。
今日の日本には社会福祉の制度があり、神の掟とは別に弱者救済の仕組みが設けられています。しかし良しとすることはできません。制度の要件をわずかに満たさない人、制度を知らない人、自らの力で申請できない人、偏見を恐れて申請できない人、孤立し困窮していること自体を把握されていない人など、私たちの見えないところで苦しむ人が確かにいるのです。そんな人々を助ける力がありながら見て見ぬふりをすることを、神は良しとされません。
話を愛の戒めに戻します。神が与えた掟のすべては「神を愛せよ」「隣人を愛せよ」という戒めに通じ、特に申命記15章に記されるこの掟は、それ自体が愛の体現そのものであると言えます。愛とは好きという感情と混同されがちですが、そうではありません。愛は、相手を大切に思う心を実行に移す決意です。自身の富や時間、労力、感情を注いででも、その人を大切に思い、行動に移す。その覚悟こそが愛なのです。
この愛を最も忠実に示したのはイエス・キリストでした。彼は生涯をかけて教えを説き、貧しい人、病や障害を抱える人、差別される人に寄り添い続け、最後には自身のいのちまでも惜しみなく捧げ、私たちに永遠のいのちを与えられました。そのキリストの愛と救いを受け取った私たちは、すでに祝福されています。人生には艱難があり、信仰生活には躓きもありますが、それで終わりではありません。主は何度でも私たちを立たせ、力づけ、恵みを与えてくださいます。
だからこそ、富める私たちは大きく手を開き、惜しみなく貸し与える者でなくてはなりません。それは経済的なことに限らず、声を上げられずにいる人と語り合い、悲しみの中にいる人に寄り添い、孤独にさいなまれている人を訪ね、生きる意味を見いだせない人と共に意味を探すことでもあります。すべては、私たちが主から受けた愛によるのです。限りない愛を受け続け、あふれる愛によって苦しみの中にある人と隣人になり、その重荷を分かち合う者となりましょう。愛に押し出されて、主の後に続く私たちとなりましょう。
