主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2026.2.8)

「赦されて立っていたのだ」  マルコによる福音書 2章1節-12節

木村拓己 牧師

 中風の人が癒される物語を読みました。ある日突然病に倒れるまで、他の人々と同じ生活をしていました。病に倒れた時から人生は一変するのです。当時、病気や障がいはその人かその家族や先祖が罪を犯したからだと考えられていました。他者との関わりが疎遠になり、諦めを抱き、絶望していくのです。ここに中風の人が自ら行動する姿は登場しません。四人に助けを求めたのか、それとも絶望していたのかは定かではありません。
 デンマークの宗教哲学者にゼーレン・キルケゴールという人がいました。自分が考える自分と現在の自分にズレが生じた時に人は絶望するのだと仮定しました。自暴自棄になったり、他者を責め立てる時、実は自分に対して「絶望」しているのだと言います。同時に、自分がズレている状態から実は抜け出したいと心では願うからこそ、「絶望」していると言うのです。
 それは私たちが自分自身について、どこまでも自分の思いのままに自分を支配しうると思い込んでいるからだとキルケゴールは指摘します。この絶望とは、人が生きる以上避けられないものであり、また必要なものだともキルケゴールは考えます。自分の手ではどうにもならないことがあるのだと気づきを与えるのが絶望だからです。キルケゴールはそこに真のキリスト者という概念を組み込んで、絶望を超えた先にある希望、神から与えられて生きる命を理性的に捉えようとしたのです。
 この中風の人も他者との関わり方が変わり、思うように自分を動かせない自分にズレを感じ、絶望したのだと思います。こんな状態で生きている意味などないと自ら諦めていたのだと思うのです。
 ではイエスはどう受け止めたか。「あなたの罪は赦される」と宣言しました。受動態ですから、言い換えれば、「神はあなたの罪を赦す」という主語が明らかになります。そこに神の働きが見えてくるのです。しかもここでの罪とは複数形です。中風の病だけじゃなく、当時考えられていた親や祖先の罪までを含めて「神はあなたを赦す」とイエスは宣言したのです。個別の罪を赦す・赦さないで生きる私たち人間と異なり、この人を取り巻く人生そのものを肯定するイエスの言葉なのです。
 「神を冒涜している」との言葉が律法学者の心に浮かび、その疑問がイエスを殺す相談、決心となっていくのです。それでもイエスはここで中風の人を赦し、癒すことをイエスは選んだのでした。
 それは神の力を伝え、神の力によって生きることの意味を世に伝えるためでした。宣教とはそういうことだと思うのです。同時に、イエスを通して示された神の出来事は、人間の現実を浮き彫りにするものでもあります。隠しておきたい弱さが明らかにされる緊張が私たちに走るのです。それらを自ら受け入れることができない時、人は絶望し、対立してしまうのではないでしょうか。
 さて、中風の人は何も語らず、感謝もせず、神への賛美にも加わらずにその場を後にします。まだ絶望の中にいたからではないでしょうか。歩くことができるようになったけれど、まだその喜びを表現するには至らないのです。四人も、人々の賛美には加わらなかったのではないでしょうか。
 喜んだ人々は観客であり、当事者ではないのです。現実を諦め、絶望してきた中風であったその人をよく知る四人は、手放しに喜べないのです。まだ与えられた赦しが中風であったその人の日常とはなっていないからです。
 動けなかった者が動けるようになったことは大きな一歩に間違いありませんが、まだ何もなしえていないのです。閉ざされた関係性が再び開き、社会生活が軌道に乗らなければ、他者に受け入れられてこその生きる喜びであって、まだ喜ぶことはできなかったのではないでしょうか。
 そして中風であったその人もまた、自分の体は自分が支配していると考えてきたけれど、そうではなかった。神に赦されて生きる体であり命であったのだと、大きな気づきに向き合わされたのではないでしょうか。すぐにそのことを受け入れ、喜ぶことはできなかった。その場を後にするほかなかったのかもしれません。きっと一人になった時、イエスの言葉をぐっと噛みしめたのではないでしょうか。
 ともすれば、自分に終始して自分で立っているかのように錯覚する私たち。うまくいかなくなって勝手に絶望する私たち。しかしその絶望の傍らにも主が立ってくださり、主に赦された者として今日も立たせてくださっていることを忘れず歩んでいきたいと思うのです。