主日礼拝説教(2026.1.11)
「人の道を歩む主」 マルコによる福音書 1章9節-11節
木村拓己 牧師
世にイエスが現れ、宣教の歩みを重ねるイエス・キリストの生涯を見つめる暦となりました。本日の聖書はイエスが洗礼を受ける場面です。他の福音書よりも簡素に書かれています。
「石をパンに変えたらどうだ」といったサタンとの問答もありません。マタイやルカによる福音書では、「洗礼を受けた者とは誘惑に敗れることなく立つ者なのだ」と描かれているようにさえ思えます。しかしマルコではそもそも断食したとも書かれていません。誘惑のすべてに打ち勝つ者として、イエスを描こうとはしていないのではないでしょうか。
洗礼の場面では天が裂けています。マタイとルカでは「天が開け…」と語られますが、マルコだけは「裂ける」という表現を用いています。マタイやルカが描く印象は、天が静かに開かれて、輝きと共に優しい言葉が聞こえて来るようではないでしょうか。神さまの意思として、イエスが洗礼を受ける場面を美しく捉えようと私たちも読んできたのではないでしょうか。
しかしマルコは違うのです。後にイエスが十字架上で死を迎える時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂ける描写がありますが、まったく同じ言葉が使われています。これから始まるイエスの宣教は、それほどに世に抗うものであったということでしょうか。マルコは、十字架において締めくくられるイエスの宣教を「裂ける」という言葉によって表しましたが、イエスの活動の出発点にも意図的に、大切に記したのではないでしょうか。
川は土地の一番低い所を流れるという言葉を読みました。この世の低みに身を沈め、低みにおとしめられた人々との連なろうとする歩みを、今まさにイエスははじめ、そこで天が裂けて神の声が響くのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者だ」と。「天が裂ける」という表現は、荒々しく不吉なイメージがあります。しかし「そこが大事な点なんだよ」とマルコは示しているように思わされるのです。
何かがひっかかり、うまく開かない。抵抗がある。信じることができない。そうした心のつっかえをも打ち破って、神さまが介入した出来事。神さまが関わらずにはいられなかった出来事。それが、天が裂ける出来事であったのではないでしょうか。
洗礼を受けると、天が裂けて神の声が響きました。それから、イエスは一番低いところから荒れ野に赴きます。それは暗く寂しく、乾いた場所です。荒れ野は一人祈る場となり、5000人の食事の場となっていきます。試される場所でありながら、相手を思い仕え合う場所、受け入れ合う場所となっていくのです。
この荒れ野とはどこでしょうか。風が吹けば砂埃にまみれ、目を閉じたくなることも多い場所、日が暮れればとても寒さと冷たさを覚える場所、飢え渇き、他人を気にかけていたら自分で立っていられない場所。
そんな場所にあってテントを立てて、一時身を休める場所、御言葉を味わい希望を持って歩み直す場所、共に分かち合い関わる場所、こうして世に教会は立ってきたのではないでしょうか。
世の隔てが引き裂かれて、自ら低みに身を屈めて生きる道。ここから、イエスは自分の歩みを重ねて行きます。それは誰かに関わらずにはいられない歩みでした。主イエスは荒れ野を歩む私たちのところにお生まれになり、これからを共に歩んでくださる方なのではないでしょうか。
