母の日礼拝・復活節第6主日礼拝説教(2026.5.10)
「その悲しみは喜びに変わる」 ヨハネによる福音書 16章16節-22節
小林 恭平 牧師
私たちが手にする聖書には、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書が収められています。その4つの福音書はそれぞれの視点からイエスの生涯を語り、私たちにその姿を示しています。そもそも、福音書はいずれも、イエスが生きていた時代よりずっと後の時代に書かれました。最も早くに執筆されたとされるマルコによる福音書ですら、イエスの死後40年ほどたってから書かれたものであり、最も遅いヨハネはイエスの死から60年もたってから書かれたと言われています。それだけの月日が経ってから書かれたということは、おそらく執筆者は直接イエスと直接会ったことがないと考えられます。
その中でどうやって福音書を書いたのかと言えば、それまでに語り継がれたり、文書としてまとめられていたイエスのエピソードや語録などをもとに、伝記的にイエスという人物の物語を記し、一つの書物として作り上げたのでした。そのため、福音書はそれぞれ、執筆者の思い描くイエス像、あるいは執筆者の所属していた共同体の思い描くイエス像や神学が色濃く表れているのです。
そうした独自性のある福音書の中でも、ヨハネによる福音書はひと際異彩を放つ書物です。マタイ・マルコ・ルカはイエスが生涯をかけて教えた「神の国」とは何かに焦点を当て、執筆されました。一方、ヨハネによる福音書だけは「イエスとは何者か」という点に焦点を当てて執筆されました。ヨハネによる福音書の著者が「イエスとは何者か」という点にこだわった理由の一つには、ヨハネの時代の人々がすでに生前のイエスをしたない時代になっていたからではないかと考えられます。生前のイエスを直接知らない時代に生きる信徒にたちは、自分たちが信じる方はいったい何者なのかを改めて考え直し、見つめる必要があったのでしょう。
こうした背景を持つヨハネによる福音書は、他の福音書と比べてイエスの語りが非常に多く見られます。特に、本日の箇所を含む14章から17章にかけては、告別説教と言われ、ほとんどイエスが話し続ける場面となっています。それはイエス自身の口から語られる言葉こそが、ヨハネ時代の信徒たちに必要だったためなのでしょう。
本日の箇所は、告別説教の中でも終盤に差し掛かったあたりの言葉になります。その言葉は、「しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」という死と復活の予告でした。ところがこの言葉を直接聞いた弟子たちは、この言葉を全く理解できず、戸惑いを抱くこととなりました。このイエスの言葉を理解できたのは、イエスの十字架の死と、三日後の蘇りを体験した後の弟子たち、そして同じくイエスの死と復活をすでに知る後の時代の読者でした。イエスの言葉は、その場にいる弟子たちに向けたものではあったものの、同時にその向こう側にいる読者に対しても向けられていたのでした。
ヨハネによる福音書が執筆されたのは、ある教会共同体であったとされています。その共同体は「会堂」という今日の教会のような神を礼拝する場から追放された人々でした。それは、ただ宗教的に排除されるというだけでなく、彼らが生きる社会そのものからの排除を意味していました。さらにその追放は時として、自分たちを殺そうとする刃すら向けられるほど過酷なものでした。その追放と迫害の体験は、ともすれば神から見捨てられたのではないかと思わせるほど、つらく苦しい体験だったことでしょう。まさに、神が「見えなくなる」体験でした。そんな彼らに対し、イエスは時を超えて語り掛けていたのです。
迫害の中でも「私を見るようになる」それは一体どういうことなのか。イエスはすでに天に帰り、もうこの地にはおられない時代の者が、キリストを見るとはどういうことなのか。それは私たち一人ひとりの中に送られた聖霊によって実現されます。聖霊は私たちの中で働き、時に私たちの思いを超えた業を私たちにさせてくださいます。そのときに、私たちはキリストを見るのです。社会から追放され、迫害され、命の危機にさらされていても、主によって結ばれた信仰の友との交わり、そして、その一人ひとりに与えられた聖霊を通し、復活のキリストと出会うのです。そこには喜びがあり、慰めがあり、励ましがあるのです。それこそが、キリストが天に帰られた時代を生き、またキリストが再びこの地に来られるときを待ち望む時代を生きる私たちが、キリストを見る機会なのです。
私たちは、日々、この地上での歩みの中で現実に思いを煩わせることもあるでしょう。苦しみや悲しみに押しつぶされそうになり、孤独の中助けを求めることもできずにいる時もあるかもしれません。神の姿が見えない。そう思うような時があるかもしれません。しかし、その現実の中でも、キリストは私たちとともにおられます。私たちの中に住まう聖霊を通し、わたしたちはキリストの愛と慰めを受けるのです。主にある交わりの中で、キリストと出会い、恵みを受けまた歩みだしてまいりましょう。
