主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2025.11.16)

「荷の重い役」  出エジプト記 6章2節-13節

木村幸 牧師

 主なる神の召しに対して、すぐにこれに従い旅立った創世記のアブラムとは異なり、モーセは度々に神に対して言葉を返す。はじめはミディアンの地でエジプトから民を導き出すようにと言われた時。またファラオと交渉してみても民がますます苦しめられることになった時。そしてまた今日の箇所と、モーセは毎回本気で言葉を返している。従順でないと目には映るが、これはモーセの性格の慎重さや、正直さの現れであるとも言えるだろう。
 「唇に割礼のない」という表現は慣用句的な比喩表現である。口下手だ、人前で喋るのが不得手だということ。口下手な自分が神の代弁者として民を導くなど非合理的すぎる。もっと弁の立つ、信用のある人がいるはずだとモーセは考える。まして逃亡者の立場でもあり、そもそも人の前に立つべき人間ではないのに、なぜ主なる神は自分に重すぎる荷を託そうとするのかと葛藤する。
 新約聖書における使徒パウロも、コリント書二の10章に、「実際に会ってみると弱々しい人で話もつまらない」と言われると書いている。同じ書の12章にはその身に「とげ」が与えられたとも。結局のところその「棘」がどんな障壁であったのか明らかにはならないが、しかし「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という言葉はとても印象深く私たちの胸に残る。
 モーセもやはり同じことである。その弱さを通してこそ示される力に、その人の力によるものではない、神の力が現れるのだということ。実直で口下手で、常に迷っていたモーセ、だからこそ、そのモーセを通して民を導かれた主の力を私たちは知ることになる。
 誰しも大きな役割や責任、地位を与えられる時こそ、自分にそれを負いきれるなどと考えてはならないのではないか。大きな荷を負わされる時こそ、それだけ多くの人の協力、支え、祈りを得てやっと立つことができているのだという自覚が必要だろう。そして重すぎる荷にあえぐ自分自身を、さらに背負ってくださっているのが、私たちが今主と呼ぶイエス・キリストであるのだ。
 モーセは、主なる神を信じる全ての宗教の中で特別な存在である。しかし同時に特別ではない存在である。私たちと同じく、主に背負われつつ、たくさんの人の支えを必要とした、人間らしい人間だったと言えるのではないか。私たちはその弱さにこそ倣いたい。