主日礼拝|今週のみことば

主日礼拝説教(2021.7.25)


「罪人を招くために」    石田 透


ホセア書6:1-6、マタイによる福音書9:9-13


 おはようございます。毎日暑い日が続いています。昨年同様マスクを外せないまま過酷な真夏の季節を迎えました。皆さんどうぞお身体大切に過ごしください。そしてオリンピックもついに始まりました。しばらくこの界隈は落ち着かない日々となるでしょう。それでも、週ごとの主日礼拝、落ち着いて毎週共に守っていきたいと思います。

 さて、今日の説教は先週のお話の続きをしたいと思います。四人の漁師たちの次に12弟子の一人となった徴税人レビ、別名マタイとイエスさまとの出会いの物語です。
 ある町の通りを歩いていたイエスさまは、マタイという人が収税所に座っているのを目に止められました。そして彼にこう声をかけられました。「わたしに従いなさい」。
 イエスさまという方は、ご自分の方から人々の生活の場へと出向いて行き、そこで人々と出会い、人々を教え導くのです。律法学者たちのように、会堂の上席に陣取り、重々しく教えを垂れるのではなく、人々が生活をしている現場にご自身が赴き、教えるのです。その教えは、とても親しみやすく、分かりやすい言葉で語られました。
 聖書には、「大勢の人々」がイエスさまのもとに集まってきたことが記されていますが、ここには大きな意味があると思います。「大勢の人々」と言う表現は、単に沢山の人々ということを超え、とても深い意味があると思うのです。すなわち、イエスさまのところにやってきた人々は、徴税人や罪人と言われていた人たちです。何となく無性格な人々ではなく、当時の宗教的エリートであった律法学者やファリサイ派の人たちとは対極にあった人々です。言わば「虐げられた人々」、「疎外された人々」がイエスさまのもとにやってきたのです。イエスさまがいつも喜んで接した人々、優しく言葉をかけられた人々というのは、様々な理由で力ある者たちから虐げられていた人々だったのです。イエスさまは彼らと語り合い、彼らと共に生きました。ユダヤ社会が疎外した人々をイエスさまは招きました。そして疎外されていた人々もまた、そのイエスさまの招きを喜びをもって受けいれたのです。時には、彼らの方から、イエスさまを自分の家に招くこともありました。イエスさまもまたその招きを喜んで受けられました。イエスさまはそのようにして、まさに民衆と共に生きたのです。イエスさまのところに、会堂から閉め出されていた人たちが大勢集まってきたというのは、ごく自然のことであると言ってよいのです。
 そのような民衆の一人である徴税人マタイがイエスさまと出会い、イエスさまの招きを受けて、イエスさまに従っていく者となったのです。徴税人は当時のユダヤ社会では嫌われ者です。特に熱狂的なユダヤ主義者であった律法学者たちからは、汚れた者、罪人とはげしく攻撃されていました。当時、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていました。ユダヤ人はローマに対して税金を納めなければなりませんでした。その時、税金集めを請け負っていたのが徴税人たちです。ローマに支配されていなければ、本来は払わなくてもよい税金でしたし、中には立場を悪用して私腹を肥やすような者もいたのです。彼ら徴税人は周りの人々から嫌われ、さげすまれていました。ザアカイもそうでしたが、徴税人たちは社会の隅に追いやられ、自分たちの居場所をユダヤ社会の中にはそう簡単に見つけることができなかったのです。そんな人たちをイエスさまは招いたのです。イエスさまのところに行かなければ彼らの居場所はどこにもなかったのです。
 イエスさまは徴税人マタイの家で、他の徴税人たちや罪人たちと食事を共にしていました。しかし、このイエスさまの態度が律法学者たちをひどく刺激したのです。彼らはイエスさまを強く非難しました。律法学者たちはイエスさまの教えの力強さというものはある程度評価していました。ただし、自分たちが拠り所とする律法を少しでも軽視していると感じた時には強く反発するのです。当時、罪人や汚れた者と同席するならば、その者もまた汚れると言われていました。冷静に考えるとそれはとても理不尽で、一方的で乱暴な決めつけです。しかしそれが彼らが主導する世の中の理屈でした。ですから、徴税人たちと親しく接したイエスさまの行動も非難の的となるのです。しかしイエスさまという方は、様々な悪口を言われようともその生きざまを貫くのです。何とも厄介な人たちとイエスさまは関わりを持たれるのです。イエスさまは徹底して疎外された者の側に立って行動する人なのです。何があっても虐げられた民衆と共に生きる人なのです。

 ところでイエスさまは、「徴税人や罪人は汚れた者扱いをされてかわいそうだ。彼らは他の普通の人たちと食事すら出来ない」という単なる同情から食事に同席したのではありません。イエスさまの怒りは私たちの思いを超えて強く、またその悲しみは私たちの思いを超えて深いのです。世の人々は彼らを罪人と決めつけ、排除しようとします。けれども、特定の人を排除し、人の世を善人と悪人との二つに分けること自体がおかしいわけで、徴税人や罪人をこの社会から疎外すること自体をイエスさまは批判しているのです。律法主義は当時のユダヤ社会で、義人と呼ばれる人たちと罪人と呼ばれる人たちを作ってしまいました。選別はいともたやすく差別へと変わっていきます。義人と言われる人たちは罪人とされる人たちを見て「自分はああでなくてよかった」とほっと胸を撫で下ろします。律法主義は、聖いものと聖くないものを簡単に生み出してしまうのです。義人たちは自らの聖さを誇り、義人であることを神に感謝し、律法の外にいる人たちを蔑視します。しかしながら、神さまの前では、完全な義人などは誰一人いないのです。でも人間は見える律法を唯一の尺度にして、罪人を作り出してしまうのです。そして、そうではない自分たち、律法の価値基準に従って真面目に生きている自分を確認し、安心を得るのです。律法主義的生き方では罪人とされてしまった人たちの深い悲しみを共有して生きることはできません。そしてこんなことは神さまの目から見れば実に滑稽で、ナンセンス極まりない有様なのです。

 イエスさまは律法学者たちの義人ぶった態度には、本当に呆れてしまったようです。そしてこう言うのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
 イエスさまは律法を守れば義人、律法を守らなければ罪人というように安易に人を区別すること自体がむしろ本来的な罪であると感じていたのです。聖書の時代も、そして今も人の世には愚かな選別があり、様々な差別があります。先日オリンピックの男子サッカーのグループリーグで、日本は南アフリカと対戦しました。その南アフリカには1991年まで悪名高きアパルトヘイト政策というものがありました。わずか30年前です。そしてこの現実は大きな課題として南アフリカ社会に今も厳然として存在するのです。アパルトヘイトとは文字通り、人を分けていく、隔離していくという意味です。この政策の源には捻じ曲げられた聖書観がありました。それは天地創造の時から、白人は優れた者として造られ、黒人は劣った者として造られたという考え方です。このように人間を分け隔てしていく根拠として聖書の教え、神のみ旨、律法を用いていくことに対して、イエスさまは徹底して戦ったのです。私たちの周りでも、違ったかたちで人を「義人」とか「罪人」というレッテルを貼って、人を評価してしまうということが起きているのかもしれません。「出来る人」「出来ない人」とか一定の基準を設けて、人間をふるいわけていくことも、律法学者の犯した罪と案外、根は同じなのかもしれません。何か固定化された価値観でもって、他人を評価したり、あるいは、自分自身に嫌気がさし、落ち込んでしまったりするのではなく、もっとのびのびとした評価というか。神さまが与えてくださった価値観ですべてのものを見ていきたいと思うのです。そして、律法学者のかたくなさを笑い飛ばし、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言い切ってくださったイエスさまに励まされ、主に招かれた罪人として歩んでいきたいと思うのです。

 預言者ホセアは罪に苦しむユダヤの人々に向かって励ましの言葉を語りました。その言葉は今を生きる私たちをも励まし、希望を与えてくれます。
 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
 私たちは皆、欠け多き罪人です。しかし、たとえ罪深い者であったとしても決して一人、闇の中をあえいで一生を終るのではないのです。一人一人に再生の道、新たな生き直しの道が与えられているのです。イエスさまは神さまからのその救いのメッセージをすべての人に伝えるためにこの世界に来られたのです。その招きは私たち全ての者のためにあるのです。