主日礼拝|今週のみことば

  聖霊降臨節第12主日礼拝 説教(2026.8.9)

「受け入れる人」  マルコによる福音書 10章13節-16節

小林 恭平 牧師

 「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
 この聖句はキリスト教教育やキリスト教保育の現場では最もよく耳にするであろうものではないかと思います。学校案内のパンフレットや教員内での教育指針、キリスト教主義学校における教師養成課程など、様々な場でこの聖句は用いられているのではないかと想像しますし、私も志望校を決める際の学校見学では、キリスト教主義学校で何度も、この聖句を目にしてきました。
 この聖句は、「子どもを愛してやまないイエス様」という印象を私たち強く与えており、キリスト教における子ども観を形成するうえで最も大きな影響を与えた言葉でもあるのではないかと思います。しかし、そんな子どもを愛するイエス様というイメージとは裏腹に、実は福音書内で、イエス様が子どもについて言及している箇所は、実はそれほど多くはありません。4つの福音書すべてを見ても、重複しているものを除けば、たった3つのエピソードしか記録されていません。しかも、ヨハネによる福音書ではなんと子どもをメインテーマに取り上げている箇所はないのです。それでもなお、「子どもを愛するイエス様」というイメージが強いのは、それだけ、今日の聖句の影響や、福音書全体を通してあらわされているイエスの生き様自体の影響が大きいのだろうと思います。

 イエス様が子どもについて言及する3つのエピソードは次の3つです。一つ目は、マルコによる福音書では9章の33節から37節のエピソードです。これは、自分たちの中で誰が一番偉いのかと議論しあっていた弟子たちに対し、「一番先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われた後で、子どもを中心に立たせ、「このような子どもを受け入れる人は、私を受け入れるのです。」と言われた場面です。それは、子どもを弟子たちが仕えるべき「最も小さい者」の象徴として示されたものでした。
 二つ目は本日の箇所です。イエスに触れていただこうと子どもたちを連れてきた人々を、弟子たちが叱ったシーンから始まります。そんな弟子たちを見たイエスは憤って、弟子たちに「子どもたちを私のところに来させなさい。」と言う場面です。
 これら二つのエピソードはマタイ・マルコ・ルカという似たエピソードが似た順番で収録されている3つの福音書のうちのすべてに収録されています。ところが、3つ目のエピソードだけは、マルコには収録されておらず、マタイ11:16-19とルカ7:31-35だけに収録されています。その内容は広場で遊んでいる子どもたちをたとえとして用いたものです。以下に、そのうちのマタイの方の一部を引用いたします。

 「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかのものにこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』 」


 先の二つのエピソードは子どもたちを尊い存在、理想的な存在として掲げているのに対し、このエピソードでは、イエスは子どもたちのリアルな姿を的確に表現しているのです。広場で遊んでいた子供たちは、些細なことで喧嘩を始めます。「せっかく私が笛で楽しいメロディを鳴らしたのに、なんで踊ってくれないの!」「お葬式ごっこをして、悲しい歌をうたっているのに、なんで泣いてくれないの!」そんな、くだらないことで不満を漏らし、口喧嘩をし、遊びを台無しにしてしまう子どもたちの姿を、イエスはしっかりと理解していたのです。そんな子どもの現実的な側面をとらえていてもなお、イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と言うのです。現代の価値観からしても、このイエスの子どもを見るまなざしはなんと尊く優しいものだと感じ、輝いて見えるわけですが、2000年前の古代ローマ社会あるいはユダヤ社会においては、現代以上に衝撃的な発言でした。
 当時のローマ社会において子どもは、「国家や社会の将来的担い手として役に立つか」という大人の都合で秤にかけられていたのでした。ユダヤ社会においては、そのような扱われ方はしていませんでしたが、それでも子どもはイスラエルの民の繁栄のために神から与えられた賜物であり、民族を保守し継承していくという全体主義のもと大切にされていたのでした。旧約聖書における「教育」の語源が「鞭打つ」や「懲らしめる」、「訓練する」という意味を持つ動詞であることからも、ユダヤ社会において、子どもは律法の下で厳しくしつけられるべき存在だったのでした。

 そんな子ども観に一石を投じたのがイエスだったのです。イエスは決して子どもを天使のように純粋無垢で罪も汚れもない存在としては見ていませんでした。広場で遊ぶ子どもたちのように、些細な言い争いで遊びを台無しにしてしまうような、自分勝手で、すぐにへそを曲げてしまうような等身大の姿をしっかりと捉えていたのです。そんな等身大の子どもを見てなお、イエスは「子どもたちを私のところに来させなさい。」と言い、「神の国はこのような者たちのものである」と言うのです。
 子どもは地位も功績も名誉も財産も持たず、生産性という社会の秤にかければ無価値な存在です。ですが、その小さく弱い子どもの姿こそが、神の国にふさわしいのだとイエスは言うのでした。多くのユダヤ教徒たちが、永遠のいのちを得るために必死に律法を守り、純潔を保とうと務め、また神殿での祭儀に腐心した一方、イエスはそうした人間の努力の積み重ねより、ずっと勝るのは子どもたちのありのままの姿であると言うのです。

 ところで、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という言葉は、ギリシア語から翻訳するうえで、実はもう一つの訳し方があります。それは「子どもを受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ」と子どもを目的語として読む訳し方です。そのように訳すとこの10:13-16と双子の関係にある9:33-37の言葉が非常に近づいてきます。9章でイエスは「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」と語ります。この言葉を子どもたちを追い払おうとした弟子たちに再び語ったのが10章の言葉である。そう読むことが出来るのです。
 この10章には、「子どもが受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という意味と「子どもを受け入れるように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という意味の両方が込められているのでしょう。

 イエスはその公生涯で、何度も「小さい者こそ、神の国にふさわしい」と口にしてきました。小さい者の代表である子どもは生産性という社会の指標で測ればとるに足らない存在です。自分のことも自分でできず、思い通りにいかなければすぐ、誰かに助けを求めなければいけない存在です。ですが、それこそが神が私たちに求める姿なのです。弱い者、小さい者ほど力ある存在に助けを求め、手を差し出すのです。愛情を求め、抱き上げてほしいと手を伸ばすのです。そんな自力ではどうすることもできない小さい者が私たちの中にもある、そのことを認め、主に手を差し出す。そのことを主は求めておられるのです。
 そして同時に、主は私たちに最も小さい者を軽んじず、受け入れることのできる、知恵ある者であることを求めておられます。「この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」という言葉の通り、小さい者を受け入れる者は、主なる神を受け入れる者となるのです。

 私たちは受け入れる者となりましょう。自分のうちにある小ささを受け入れ、力ある主に抱き上げてもらわねばならない存在であることを受け入れるのです。そして、主に抱き上げられ愛で満たされるのと同時に、自らの隣人として置かれた小さい者を受け入れるのです。小さい者を決して軽んじず、愛をもって受け入れ、主なる神を受け入れるのです。今週も主の愛に満たされ、主を見上げ、小さい者を受け入れる者として歩んでまいりましょう。