主日礼拝|今週のみことば


ペンテコステ礼拝説教(2025.06.08)


「確信せず」 木村拓己牧師

マタイによる福音書 12章15節-21節(9節~21節)

 片手の不自由な人が礼拝に来たのを機に、ファリサイ派の人々はイエスが安息日に人を癒す決定的証拠を掴もうとしました。イエスは「羊が安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか」(12:11)と語り、片手の不自由な人を癒しました。
 ファリサイ派の人々の怒りが極まったことがわかります。こうしてイエスはその場を立ち去るのですが、まわりにいた大勢の群衆はイエスに従っていきました。その多くは病人であり、全員をイエスは癒したのでした。
 多くの病人が会堂に礼拝に来ていました。神を賛美するために、同時に病が癒やされることへの願いをも心に秘めて…。ファリサイ派の人々はそうした人々を見ず、イエスの悪行の証拠を掴むことに躍起だったのでした。
 「教皇選挙」という映画が長らく上映されています。「確信することの危険性」が散りばめられた映画でした。選挙を取り仕切る枢機卿が主人公なのですが、ずっと考え込んだり苦悩しています。そんな彼の名前はトマスなのです。まさに「疑い」を背負わされた役です(原作では主人公の名前はトマスではないようで、映画だけの脚色のようです)。つまり映画を通して、「確信することの危険性」を示し、主人公は疑いを抱きながら役割にあたっていくのです。そんな主人公が選挙前の礼拝説教で語った言葉を紹介します。次のような言葉でした。

 神が教会に与えた賜物は、その多様性である。私が何より恐れるようになった罪が一つある。それは「確信」である。私たちの信仰は「疑い」と手を取り合って歩むからこそ生きていけるのである。「確信」とは「寛容」の敵であり、不確実であることこそが信仰の本質ではないか。

 本日の聖書に戻れば、イザヤ書42章が概ね引用されています。「争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。」とあるように、イエスはその場を立ち去ります。なぜなら、ファリサイ派の人々に勝つことが目的なのではなく、病気や障がいを持つ人々を救うことこそが大切なことだったからではないでしょうか。
 傷ついている人が諦めることなく生きていけるように支える方、揺らいでは儚く消えてしまいそうな信仰を灯し続ける方、それがイエスなのです。癒されることだけが目的なのであれば、癒した者が誰であるかは重要ではありません。しかし、自分の病について一緒に考えてくれている者は誰か。今傷ついている自分が諦めることなく生きていけるように寄り添ってくれているのは誰か。揺らいでは儚く消えてしまいそうな信仰を灯し続けてくれているのは誰か。そのことを聖書はたびたび私たちに示しているのだと思うのです。正義という言葉に振り回される私たちに示される救い主とは、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない救い主なのです。
 今日はペンテコステ礼拝。自分の言葉や考えに終始せず、誰かのことを、神と人とを大切にする言葉を語ってみようと心に決めた日だったのではないでしょうか。教会をつくりあげるってそういうことではないでしょうか。それは、確信に満ちて神さまに向かって直立するような生き方でなくても良いのです。風に揺られて、ふらふらしているように見えたとしても、確かにそこに風が吹いていることを教えるのではないでしょうか。曖昧さと、ゆるさを心に持ちながら、それは寛容とも言えるのかもしれません。メリハリをつけたくなる誘惑に抗いつつ、そよそよ揺られ、新しい不確実な一週間へと神さまとでかけていきたいなと思うのです。