主日礼拝|今週のみことば

  子どもの日・花の日合同礼拝 - 聖霊降臨節第4主日礼拝 - 説教(2026.6.14)

「悪霊なんて怖くない」  使徒言行録 16章16節-24節

小林 恭平 牧師

 イエス様は聖書でたくさんの奇跡と言われる不思議なことを行われました。そのうちの多くは「癒し」と呼ばれるものでした。それは病気の人を癒したり、身体が不自由な人を癒したり、そして悪霊と呼ばれる悪い霊に取りつかれた人から悪霊を追い払って癒したりするというものでした。
 霊には神様からくる聖霊もいれば、そうではない悪霊もいます。聖霊は、私たちに正しい心と正しい行いをくださいますが、悪霊は反対に私たちに取りついて悪さをします。聖書では、悪霊に取りつかれた人はしゃべれなくなったり、目が見えなくなったり、身体を思うように動かせなくなったりすることもあれば、叫んだり、暴れたり、自分の体を傷つけてしまうようなこともあったと書いてあります。それは、自分の思うように生きられない苦しみでありましたが、それ以上に苦しかったのは、周りの人たちから「あの人は悪霊に取りつかれた人だから」と遠ざけられて仲間外れにされていたことでした。こんなに苦しんでいるのに誰も理解してくれない。みんな自分から遠ざかっていく。そんな辛さを抱えていたのが悪霊に取りつかれた人たちだったのです。
 そんな苦しむ人たちを癒したのがイエス様だったのです。イエス様の癒しは、悪霊を追い払って、生きづらさを取り除いてあげるだけではなく、一人ぼっちでいたその人を、もう一度仲間の輪に戻してあげる。そんな癒しの業だったのです。

 イエス様の癒しの力は弟子たちにも与えられました。その弟子のひとりにパウロという人がいました。パウロはかつて、イエス様と出会う前は、キリスト者を迫害し、死に追いやる計画まで企てたほどの人物でした。しかし、イエス様の幻と出会い、その声に導かれて心が変えられ、イエス様の弟子として、神様とイエス様のことを宣べ伝える人となりました。
 そのパウロは、ある日「占いの霊」という不思議な力を宿した女性と、その女性を利用してお金儲けをしていた主人たちに遭遇します。聖書には、占いの霊(ピュトンの霊)に取りつかれた女奴隷としかありませんが、その女性がパウロの後を追いまわして叫ぶ様子から、おそらくその女性は「占いめいた奇妙なことを叫ぶ奇妙な人」として見世物にされていたのではないか、そうして主人たちは観衆からお金を巻き上げていたのではないかとも考えられます。いずれにせよ、金儲けの道具として囚われていたのがその女性だったのです。
 女性はパウロの後をつけては大声で「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と叫びます。それは一見すると、いい宣伝になるのだからそのままにしておけば良いように思えます。しかし、パウロはそれを快く思いませんでした。それは、自分たちがみんなに伝えている神様やイエス様が、占いという怪しい力と関係があるように勘違いされてしまう恐れがあったためです。そして、何よりパウロが許せなかったのは、霊に取りつかれた女性とそれを金儲けの道具にしている主人という構造でした。金の生る木であった女性を主人たちは手放そうとするはずがありません。ずっと奴隷として手元に置き搾取し続けるのです。そんな霊的にも社会的にも囚われの身とされていたことをパウロは許せなかったのです。だから、その女性から霊を追い払ったのでした。それは、神様の正義、つまり、大切に思う愛を貫く行動だったのです。
 そうして占いの霊が出ていった女性は、もはやお金儲けの道具ではない、ひとりの人となったのです。ですが、それは主人たちにとっては金儲けの手段がなくなることでもありました。それで怒った主人たちは、パウロとその仲間をとらえ、高官の前で嘘を言いふらしたのでした。そればかりか周りにいた人々もそれに同調し、パウロを責め立てたのです。そのため、高官はパウロたちをむち打ちにして牢屋に放り込めと命令したのでした。
 パウロたちは正しいことをしたにもかかわらず、かえって主人たちにとらえられ、大衆に責め立てられ、むち打ちにされ、牢屋に捕らわれたのです。そんなパウロたちは、こんな目に遭うならいっそ、あの女性を見て見ぬふりしておけばよかった。そうすれば、こんな目に遭うことはなかったのに。そんな風に考えることもできました。ですが、パウロたちはそうは考えませんでした。なぜならパウロは愛に満ちていたからです。
 パウロはかえって、牢屋の中で神を賛美し、祈りをささげていました。その生き様は同じように牢屋にとらえられていた他の人たちの心を動かします。それだけでなく、そのあとに起きた奇跡によって、自分たちを見張っていた看守たちの心も動かし、神を信じる人に変えたのでした。

 神の正義である愛を貫くことは時として、パウロのようにつらい目に遭うこともあります。しかし、それでも愛を貫き神の正義に立とうとする人のことを神様は喜ばれます。そればかりか、ちゃんとそのつらい状況にあっても助けを与えてくださり、苦難を恵みに変えてくださるのです。
 私たちは愛を貫くことをためらってはいけません。特に弱くされている人、小さくされている人を見捨てることは許されないのです。それは簡単なことではありません。パウロのように苦難に遭うこともあります。それでも、その苦難も含め最善を与えてくださる主を信じて生きていきたい。そう願います。