「ゆとりのない時代に」 木村拓己牧師
コリントの信徒への手紙二 8章1節-15節
教会創立121周年を迎えました。原宿教会には平日日曜問わず、本当にさまざまな人が来られます。オルガンコンサート「ランチタイムメディテーション」に足繁く通う方、外国人旅行者、コーラスグループ。来週は青山学院大学ハンドベル・クワイアの大学生たちを招いて演奏いただく予定です。
本来、教会に足を運んでもらうことは容易ではありません。教会員以外で教会に来られる方などほとんどいないのが多くの教会の日常です。それがこのステキな礼拝堂を与えられたことで、実際足を運ぼうと訪ねてくださる方が少なくないのです。
このステキな礼拝堂が建つ前、会堂建築の計画を進め始めた頃の教会だよりを見ると、当時の牧師は「ハードとソフト」という言葉が散見されます。ハードである建物と、ソフトである教会員である私たちは両輪であって、ハードだけが整っていても「教会が教会であること」を十分に発揮することはできないという提言だと思います。
本日の聖書も教会形成について語られます。出エジプト記16章から「マナ」について引用されています。その日に必要な分だけを取りなさいと神は伝えました。他の誰かにとっても過不足がないように互いに配慮し生かし合うことが求められたのだと思います。
この考え方は確かにユダヤ教に受け継がれ、旅人が空腹である場合には畑から少し作物をもらっても良いとか、収穫の際には全て刈り取るのではなく、社会的に弱い立場の者のために残しなさいと律法に定められています。
さて、パウロはコリントの信徒に語りかけます。キリスト教が日の目を見なかった時代、当時のパウロの働きがどうだったかと言えば、いつもうまくはいかなかったようです。むしろ弱さの塊だったと告白しています。行く先々で誰も知らない福音を語っては失敗し、勝手に畑に入っては怒られる、助けてもらえないことにも驚いたかもしれません。いわば社会からはじき出された有様で福音を語っていたのではないかと想像します。
そんな中、信仰を同じくして神のために働く友が与えられ、大きな支えとなったのです。牧者一人では到底成し得ない歩みであったのです。だからパウロはこの手紙の12章でも、「私は弱いときにこそ強い。弱さの中でこそ力は全うされるのだ」と告白したのではないでしょうか。この力とは本来誰もが持つ力、「立ち直り、生かそうとする力」のことです。
パウロの願いは「エルサレムの教会のために献金してほしい」ということでした。使徒言行録11章を読むと、エルサレムで地震が起こり、飢饉に陥っていることがわかります。マケドニアの人々が乏しい中から差し出してくれたように、ぜひお願いしたいと書き送るのです。
しかし今日読んだ箇所では一度も「献金」という言葉は出てきません。慈善の業や奉仕、惜しまず施す、そしてそれらが交わりとなるといった言葉が使われます。マケドニアの人々が持っていた、相手を生かそうとする力、思いによって自らを差し出してくれたことにパウロは心動かされたのだと思うのです。ユダヤ人と外国人とがキリストにおいて一致する。国籍や民族、言葉を超えて、助け合う。いつか天の国で出会う者たちの姿の先取りとして、今つながってほしいとパウロは訴えるのです。
それが豊かであったときは良いのです。経済的な余裕があったときは良いのです。余裕がなくなったとき、社会が傾き、あらゆる点で右肩下がりの現代においてもあてはまるでしょうか。ゆとりがなくなってしまったのです。
外を見れば強い者、奪う者たちが自分たちのためだけに力を振るっている。弱さを見せることができない。どこにも相手を生かそうとする力が見られなくなって関係が歪んでしまった状態。愛のない状態だと言うのでしょう。
弱さを見せられない状況では、誰も互いに関心を寄せることができません。そうなると、人と人との関わりが生まれることもありません。愛が生まれることもなくなっていくのです。世界を見渡しても愛を見つけることができない。救いを見つけることができない。そんな状況に立たされる人は少なくないのではないでしょうか。
そうした歪みのすべてを打ち破ったのが、自らを差し出したイエスの十字架であったのではないでしょうか。イエスの愛を受けて私たちは生きています。このイエスの愛をイエスに返したいし、誰かに分けてあげたいと願うのです。私たちのために命を投げ出して示されたキリストの愛を思う時、私たちもまたどんな状況にあっても、わずかでも、自ら関わりを差し出そうとするところに信仰者としての生き方があるのではないでしょうか。現代でもそんな心の豊かさに触れる場所、弱さを見せられる場所がいつも求められているのではないでしょうか。
荒れ野を旅する人々が与えられたマナ、それは「すべて神から与えられている恵みによって自分たちは生きている」という実感を教えるものです。その本質が律法に刻まれ、今日の私たちにも伝えられているのではないでしょうか。
神さまから与えられている恵みを受けて122年目を踏み出すこの時、教会が教会であることを考えながら歩んでまいりましょう。関わる喜びを、分かち合う喜びを胸に歩んでまいりましょう。