主日礼拝|今週のみことば

  振起日・聖霊降臨節第16主日礼拝 説教(2026.9.6)

「キリストにあって」  ガラテヤの信徒への手紙 1章1節-10節

木村 拓己 牧師

 ガラテヤの信徒への手紙は、否定の挨拶から入る珍しい手紙です。感謝の挨拶が記されない珍しい手紙です。さらには呪いが示される珍しい手紙です。振起日の朝、「もらってうれしくないパウロからの手紙」が私たちにも届けられています。
 パウロが3回にわたる宣教旅行の中でガラテヤを訪問した後、別のキリスト者がガラテヤ教会を支えたようです。ユダヤ教の律法を重んじるキリスト者であったことはわかっています。
 この手紙の始まりで問題とされるのは「誰がガラテヤ教会を歪めたか」ではないのです。「ガラテヤの人々が信仰的に流されてしまったこと」が問題とされているのです。あなたたちは何を信じ、告白してきたのか。そのことを今思い出さなければならないとパウロは問うています。
 2章以降では律法の象徴として割礼が語られます。異邦人キリスト者で構成されたガラテヤの教会の人々を後から訪れた別のキリスト者は、ユダヤ教の律法を重んじ、またエルサレムや他の教会から仲間として認められるためには「割礼が必要だ」といった主旨が語られていたのだと想像されます。
 ガラテヤの人々を思えば、かつては自分たちも属していた土着の宗教に取り囲まれながら、キリスト者として、信仰者として生きることがどれほど難しいことであったかを思います。そして他の伝道者の教える中で、他宗教どころか同じキリスト者からも認められていないと突きつけられていたのではないでしょうか。
 その解決策として、割礼を通じてユダヤ教キリスト者との関係を結ぶことで、キリスト者としての安心、身分や立場が保証されると言われていたのではないでしょうか。そんな誘惑の中にガラテヤの人々は立たされていたのではないでしょうか。そしていつしか、割礼ならば自分にも実践できる信仰者の業であるかのように映るようになったのではないかと思うのです。
 パウロは語ります。「わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」と。
 これはパウロの思いであると同時に、そのままガラテヤの人々の心を強く表す言葉だったのではないでしょうか。パウロとガラテヤの人々は呪い合う関係ではなかったはずです。同じ悩みを抱え、共に聖書を味わい、賛美と祈りをささげた友であり、共感し合う神の家族だったはずです。
 信仰は、神を味方につける手段ではありません。神はすでに私たちの側に立ってくださった方だからです。それは時代を超えて、地域を超えて、今私たち一人ひとりを取り巻く日々に届けられている良い知らせ、福音です。
 現在の自分がどうであるか、変わりたいと願っているか。現在に満足している部分、感謝している部分と共に、自分の現在の生活を取り巻く何かがあるのか。そうして自らを見つめていった先で、聖書の言葉を思い出した時、それは主に従う者として始まっているのではないでしょうか。神の恵み、福音という良い知らせを受けた自らを神に委ねていくことができるか。確信に至らなくとも委ねたいと願う時、信仰者としての第一歩を踏み出しているのではないでしょうか。
 弱さの中で新しさを語ったパウロを信じるか、後からやってきた伝統を纏った者を信じるか。人は揺れ動く時、確かなものを求めます。パウロは「キリストにあって」、「キリストにおいて」と何度も語りました。具体的に洗礼を意味する言葉です。罪に死んでいた者がキリストと共に新たに生かされるのです。自分で自分を変えられるかはわかりません。しかし神によって、キリストにおいて変えられていく兆し、実感、それを希望と呼ぶのかもしれません。
 もらってうれしくないパウロからの手紙。しかしキリスト共に歩むことを心に決めた信仰を思い出し、キリストにあって生きていくことを今一度振るい起こすメッセージを受け取りましょう。自分たちがやりたいように進んでいくだけではなく、イエスの福音に聞きながら、一人ひとりが現在よりもプラス一歩を踏み込んで、キリストの僕として生きることを目指してまいりましょう。