「羊飼いの声」
ヨハネによる福音書 10章1-6節
「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」
ここには、羊飼いが自分の羊の名前をちゃんと知っていることが記されています。つまり、羊飼いとして人々を導く人は、羊たち、人々1人1人のことを知っていて、その名前を呼んで、先頭に立って導いていくこと、そして、羊たちも自分の羊飼いの声を聞き分けて、その人に従っていく様子が描かれています。ユダヤにおいて「名前」とは、今の私たちよりも、大切なものとして考えられていました。ユダヤにおける「名前」は、その名をもつ存在の全てを表すものとされていました。つまり、「名前を呼んで連れ出す」ということは、その相手のその時のありのままを見て、知っていて、受け止めるということをも含まれた意味を持っています。私たちを導く羊飼いである主は、私たち1人1人を見つめていて、知っていてくださり、受け止めてくださっています。そして私たちの名前を呼んで、いつも導いてくださっています。
私たちに求められていることとは何なのでしょうか。それは、羊飼いと盗人を見分けるということです。3節には「羊はその声を聞き分ける」と記されています。羊である私たちは、羊飼いの声とそれ以外を聞き分けて、羊飼いの声について行くことが求められています。
しかしながら、私たちは私たちは弱く小さい存在です。ちゃんと羊飼いの声を聞き分けることができるのだろうか?「その声を聞き分ける」と自信を持って言えるか、と聞かれると、少し悩んでしまうのが私たちであります。4節を見てみると「羊はその声を知っているので、ついて行く」と記されています。私たちはまず、その羊飼いの声を知らなくてはいけません。イエスキリストの声を、その言葉を知ること、それによって、私たちはその声を聞き分けることができるようになっていきます。聖書の御言葉に聴くこと、日々の礼拝の中で語られる言葉を、私たちいつも心に留めて、羊飼いの声を、主の御言葉を覚えたいと思うのです。
そうは言っても、私たちは弱くいつも悩み不安の中にあります。人生を歩んでいく中で語られている言葉が、私たちを導く神の御言葉であるのか、はたまた滅びの道につながる誘惑の言葉であるのか、悩んでしまう私たちであります。
しかし、そんな私たちを受け入れ、大丈夫だと言ってくれるのも私たちの主イエスであります。イエスが福音書で語った「迷い出た羊」の話にそれが示されています。主は100匹もの羊がいる中で、迷い出てしまった1匹の羊である私たちを、どこまでも探してくださいます。そして探し出してまた群れまで戻してくださるのです。私たちの羊飼いである主イエスの深い愛がいつも私たちに注がれているのです。
11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られています。私たちは弱く小さい、自分では何も出来ない羊のような存在であるかもしれません。しかしながら、そんな私たち1人1人のことを知ってくださっていて、いつも見守り支えてくださり、迷い出た時には探してくださり、命を捨てるとまで語って、愛してくださっています。今日御言葉を与えられた私たち、それほどの愛を持って私たちを守り導いていてくださる主の声を、私たちの「羊飼いの声」を、しっかりと耳を澄ませて聞いていきたいと思うのです。