主日礼拝|今週のみことば

主日礼拝説教(2025.08.31)

「神と我が家族」 木村幸牧師

マタイによる福音書 12章46節-50節

 今日の聖書の箇所は、カトリックの信仰ではとりわけ聖母として信仰の対象にもなっているマリアを、母ではないとでもいうように突き放したイエスの言葉が印象的である。しかしイエスが伝えるのは実際の家族関係の良し悪しではなく、神の御心を行う人こそが、兄弟であり、家族なのだという、根源的な関係のあり方だった。
 同じ戒律を守り合って世界中のどこにいてもお互いを仲間だと認識できるユダヤの民や、1日に何度もメッカに向けて礼拝を捧げるムスリムと違い、クリスチャン同士が社会の中で互いを見出すのは難しく、信仰者同士の関係も希薄であると言わねばならない。同じ信仰を持つ人は家族だと口にしてみても、それは理想論のように響き、言葉面だけが虚しく映るように思われる。
 そんな風に顧みる時、物語というものに私たちは示唆を与えられる。世界全般において文字が一般に普及するまでは、すべての物事は口伝えで継承されるものだった。基本的な情報、生活上の知恵を口頭で伝えるのはもちろん、家族や民族にとって大切な歴史や、特別な技術、重要な秘密も、古来すべて口伝によって人々は受け継いできた。伝えること・語ることは、即ち関係することだったのだ。
 他に何の根拠も記録もない中では、伝え合うこと、語り合うことが、人と人の関係と歴史を作るものだった。聖書の古い物語が伝えられてきた経緯も同様である。文字とそれによる記録がどの時代に入ってきたかは世界の地域によってバラバラだが、口頭伝承という文化だけは、どの地域にも必ず存在していた。
 英語で関係という単語はrelationという言葉にあたる。この単語の動詞形はrelate、関係するという意味であるが、この単語にはその他に「語る、伝える」という意味が現れる。また形容詞形のrelativeという単語になると、今度は親戚、親類という意味になる。
 人と人は語り合うことにより、関係を作り、家族にもなる。逆に言えば、血がつながっていたとしても、互いに語り合うことをしないのなら、それは確かな関係であると言えないのかもしれない。とすれば私たちが主にあって互いに家族だと言うためには、語り合う必要がある。誰かと語り合い、聴き合うことなしに、近しい関係を作ることはできない。相手の物語が、自分にとっても意味のある物語になっていく時、互いが家族のような存在になってゆくのだ。
 私たちは神の御心のもとに家族である、その言葉を絵空事にしないために、互いに語り合い、聴き合う者たちでありたい。