主日礼拝|今週のみことば


主日礼拝説教(2024.4.14)


「岸辺に立っている人」井殿謙


ヨハネ21:1~14


 弟子たちは漁に出ます。しかし、この夜は全く何も取れませんでした。もう夜も明けてしまい、疲労も積み重なり絶望の中にあった、そんな時突然、岸辺から声が聞こえてきます。「何か食べ物はあるか。」ペトロたちはそれが誰なのかはわかりませんでした。その岸辺の人は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言います。彼らは不思議に思いつつも再び網を打ってみます。その言葉は現実となっていきます。船から打った網には引き上げることができないほどに大漁の魚がかかっていました。私達も、夜通し働いたのに1匹の魚も取れず、疲れ切って力なく肩を落とす、そんな徒労の現実に向き合わなければいけない時があります。そんな時、イエスは夜明けの岸辺で待っていてくださるのです。
 弟子たちが岸に着いた時、すでに炭火が起こしてあり、魚が乗せてありました。イエスが弟子たちをもてなす様子が描かれます。かつて数年間一緒に旅をしてきたあの時と同じように、パンを裂いて弟子達に渡します。夜通し漁をして疲れ果てた弟子達の身体に沁みる食事、そして、恐れや悲しみ、思い悩んでいた弟子達の心に沁み渡る、温かい主イエスとの食事でありました。私たちが疲れ切って肩を落とし失望する時にイエスは岸辺で見守ってくださり、私たちの心が沈んで思い悩む時に、食卓に迎えてくださる、そんな優しく温かいイエスの姿が示されます。十字架の出来事の際にイエスを見捨ててしまった弟子たちのことも、イエスは受け入れて、迎え入れてくださっています。私たちのことも、いつもその温かい食卓へと招いてくださっています。
 今日の箇所で、もう1つ見つめていきたいのは、「復活のイエスとの出会い方」です。復活されたイエスは、岸辺に立っている人として弟子達の前に現れて「何か食べ物はあるか」と声をかけていました。しかし、弟子達は、夜明けの薄暗い中、少し遠い岸辺に立つ人が誰であるのか分かりませんでした。ここで聖書が示していることは、復活のイエスは「見知らぬ人」として、登場するということです。私たちが見てすぐ分かるような形ではなく、隠された姿で登場をしているということです。何か思いがけないような、意識していないような時に「見知らぬ人」として現れて、復活のイエスとの出会いはなされていく、このことが示されています。
 このような復活のイエスに対して私たちはどうすれば良いでしょうか。私たちはイエスを見過ごしてしまうことがあります。「見知らぬ人」だから無視をする、ということよりむしろ、気づかずに見過ごしてしまいがちな私たちです。そのような私たちにイエスは、イエスの出会い方について教えられている箇所があります。マタイ福音書25章です。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」「見知らぬ人」として私たちの側に立つイエスを見出していく、それが、「主が私たちを愛してくださったように互いに愛し合う」ような主に従う歩みであり、そのことを通して、私たちはイエスと出会うことができるのです。
 イースターを迎え復活節を過ごしている私たち、与えられている御言葉を携えて、岸辺に立っている人、イエスを見出していきたい、復活のイエスと出会うような歩みをしていきたいと思います。そのために祈りつつ、主に従っていく歩みを進めていきたい、そう願うのです。