主日礼拝|今週のみことば

  聖霊降臨節第9主日礼拝 説教(2026.7.19)

「何度でも」  コリントの信徒への手紙二 6章1節-10節

木村 幸 牧師

 パウロの思想の基盤、あるいはキリスト教神学においても語られて来たものとして、危機は転機であると捉える解釈がある。危機とはつまり平穏な日常とは異なるピンチの状態だが、この時にこそ主なる神は人に問うておられるのだという考え方だ。危機という言葉自体にも、転換期という意味が込められているように、それはその後の展開を二分する重大な分かれ道であると言い換えられる。選ぶ道によって、肉体的ないし社会的な死に近づくのか、あるいは新しい次元の生き方を獲得するのか。
 パウロは危機のさなかに自らを見出すたびに、死ではなく、キリストの命がもたらすさらなる強さを示して生き永らえて来た。死にたくなくて必死にそうしてきたということではなく、問われるたびに信仰によって応えてきた結果、次にまたその次にと彼には新たな使命が示されて来たのだった。
 今日の箇所は全体を通して、信仰者および使徒というものが、一般的な見え方や尺度から実際の状態がかけ離れていることが述べられている。普通ならば大ピンチであるような出来事は、主への信仰とその加護を示すチャンスとなり、社会的には嘲笑われるようなあり方に見えても、当人は充足を感じている。他者からの評価など意にも介さない強さを内在させているということ。それが真に主と強く結ばれている信仰者の状態であるのだとパウロは伝えるのだ。
 現代に生きるクリスチャンは信仰を咎められるような危機にはあまり遭わなくなった代わりに、自らの信仰を強く持って表現するような機会もなくなった。世と折り合えている限り、変に主張する必要もないと言えるだろう。そうして私たちは普通になりすぎてしまったのかもしれない。昼行灯のようにぼんやりとして、世にいてもいなくてもそう変わらないのかもしれない。
 昼行灯なのだとしても、それでもとにかく灯りを絶やしてはならないのだろう。とその努力を誰に気づいてもらえずとも、光を決して手放してはならない。それが初めて理解されるのは、世が暗くなる時だ。世の中が明るい時には気にも留められなかった私たちの信仰が、人々が希望を失う時になって燦然と輝いて見えることになる。それまで続けた灯りを絶やさない努力が、その時になって、人々の生きる頼みの綱にもなるかもしれない。
 目立たない、地味で堅実な努力を、ファスト思考の世間は効率が悪いと退けても。この努めが幸いなのだと、主の強さを内在させて、歩みを止めずにいたい。