主日礼拝説教(2026.1.4)
「神に見つけてもらう人生」 ルカによる福音書 2章41節-52節
木村拓己 牧師
クリスマスを通して、私たちは救い主を世にお迎えいたしました。それが一時のこととならないように、主にある希望を何度も確かめる2026年にしたいと思います。本日の聖書は12歳のイエスさまです。つい先日クリスマスにお生まれになったばかりなのに…と感じられるかもしれません。他所のお子さんの成長はとても早いのです。
エルサレムへお祭りの旅に出たイエスとその両親は、その帰路でイエスとはぐれてしまいます。 しかも両親が一日歩いた先でイエスの不在に気づくのです。再び一日かけてエルサレムへと戻ります。離れ離れになって三日目、両親であるヨセフとマリアは、エルサレム神殿の境内でようやくイエスを見つけたのでした。血の気が引くような迷子事件ですが、実はイエスは一歩も動いていないというのが本日のお話です。
この物語はイエスの公生涯の縮図だと言われます。もう少し言えば、復活のキリストを下敷きにして描かれています。過越祭の時期にエルサレムに入るイエス、神殿のイエス、そして三日後に見つけられ、父のもとにいるということ。いずれもイエスの十字架から復活のイエスにおいて表される事柄となっています。
また、学者たちの真ん中に座り、イエスが話を聞いたり質問する姿を見て、皆驚いていたと記されます。少年という外見にとらわれない言葉、見たことも聞いたこともない言葉が語られていたからです。それこそが復活のイエスに出会った人々の姿であったのではないかと思うのです。「今ここで御子は我々と共におられる」という実感があったのだと思うのです。自分の人生において、神の子イエスを信じるか、復活のキリストを信じるかという問いを自覚的に抱いて、共にいてくださる主と生きることを選び取った信仰者の姿を思うのです。
「わたしが神の家にいるのは当たり前だ」というイエスの自己啓示。ルカ福音書はキリストの誕生物語を描きます。1章から2章にかけて、天使ガブリエル、羊飼いへの天使、信仰者シメオン、そして預言者アンナというイエス以外の存在が、主イエスを表してきました。しかし今、イエス御自身が自らを表すのです。その後両親に仕え続けたというのは印象的です。救い主イエスの自己啓示は人に仕えることと密接につながっているのではないでしょうか。
礼拝で御言葉に聞き、そこから出会う人々と共に生きることへと遣わされていくのが信仰者の生き方です。過越祭の礼拝を終えた群衆たちも、エルサレムから自分のところへと帰っていきました。その矢先に両親がイエスを見失うというのは、神の言葉に聞いていながら、早速目の前の人と歩むことができていない信仰者の姿であるのかもしれません。自分の道ばかり見る信仰者の姿であるのかもしれません。その裏でイエスは孤独を抱えて神殿で過ごしているのです。
両親はイエスを見つけることができませんでした。「見失った存在を捜す」というテーマは、ルカが好んで用いる表現です。失われた羊、放蕩息子のたとえなどです。この物語は親のみならず、クリスマスに幼な子イエスを共に迎えた私たち信仰者にも、投げかけられる問いではないでしょうか。イエスを通して、再び神さまと向き合わされているのではないでしょうか。
今日の物語は親が主体となってイエスを探す物語でした。私たち信仰者も自ら主体となって、日常の中でイエスを探します。御言葉を求めます。しかし見方を変えれば、イエスを通して私たちは再び神のもとに招かれ、神に見つけてもらっているのではないでしょうか。私たちは自分で神を願い求めていると感じがちですが、実は主イエスを通して神に見つけられる人生を歩んでいるのではないでしょうか。
神の子イエス・キリストは、時代を超えて今なお、神さまと私たちを結び合わせ、今日を生きる糧を与えてくださいます。しばらくいなくなっていた者が見つけられる神の喜びが描かれているのです。それは私たちの喜びでもあるのではないでしょうか。キリストに遣わされて、目の前にいる人と共に生きていくことを、新しい年も実践していく者でありたいと願うのです。2026年も神さまに見つけてもらう人生を大切に歩んでまいりましょう。
