主日礼拝説教(2025.12.28)
「星を追う人」 マタイによる福音書 2章1節-12節
木村幸 牧師
今日の物語の中心にある占星術の学者たちは「マギ」と呼ばれる存在だった。それはペルシャで興ったゾロアスター教の祭儀において欠かせない身分の人々である。マギは祭儀を司るだけでなく、哲学や薬学、自然科学などを研究することが多く、それゆえに学者と呼ばれるような側面を持っていた。占いや夢解きなどにも精通し、神秘的、不可解、或いは不気味というイメージも彼らには付きまとう。「マギ」という名称は英語の「magic」「magician」といった語の語源となっており、魔術や魔術師といった言葉の元のイメージはまさに彼らなのだった。とりわけ当時の人々がよく信じていた占星学、星占いによく通じていたという。
ちょうどこの頃ユダヤやペルシャだけでなくヨーロッパ一帯にも、世界的な王たる存在を待ち望む気運があった。そうした中に学者たちは、ユダヤの方角の空に見たことのないような特別な星を見る。
マギと呼ばれる学者たちは、あの星を追って突き止めた先に何があるかという、彼らの人生を賭けるべき問いを見出した。それは果てが知れず、砂漠を越えて危うく、壮大な旅である。旅を始める時に立てた仮説、信じたものを、その長い長い道において幾つもの過程を経て立証してゆく。夜の中をゆくように、先の見えない道を、目的に向かって歩み続けねばならない旅だ。
私達もまた、キリストを信じると告白した時に、その旅のスタートに立った探求者の一人なのだと考えられる。旅の終わりに見出すものは、皆が同じというわけではないだろう。マギたちはそれぞれの捉える救い主を象徴する宝物を携えて行った。私たちならば何を携えてゆくか、何も持たずに行くか、それもきっとそれぞれなのだ。
私達はどんな問いを立てて、どんな道を辿って、はるか遠くに光る星を目指しているだろうか。正解のない問いにおいて、諦めずに答えを求め続けることができるのか。途中で諦めてしまうことがないとも限らない。自分でもそうと気づかず、足を止めて、旅を止めてしまっているかもしれない。
毎年毎年飽きる程読んできたはずのこの箇所の、どこか遠い存在のように思っていた学者たちに、今日から自身を重ねてみてほしい。飽くなき探求を続ける彼らのように、私達も常に、問いを持って聖書に向き合うべきではないだろうか。その道々においていくつもの証を立ててゆけるように、問い続け、悩み続け、答えを探し続けながら、諦めることなく旅を続けて行きたい。
