復活節第7主日礼拝説教(2026.5.24)
「ナイスレシーブ」 使徒言行録 2章1節-13節
木村 拓己 牧師
ペンテコステ。お読みした聖書には聖霊降臨の出来事が書かれています。イエスの弟子たちが家に集まっていると、急に強い風が吹く音が聞こえ、家中に響いた。炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、天下のあらゆる言葉で福音が語られたというお話です。
復活のイエスが天に昇り、弟子たちはイエス不在の時を過ごしていました。不安を抱きながらもイエスの約束を信じ、弟子たちは心を合わせて祈っていました。こうして教会という体は出来上がっていったのでした。しかしこの教会という体には決定的に欠けているものが一つあったのです。それが聖霊でした。神の命の息、聖霊が吹き込まれることによって、人は生きる者とされ、教会という体もまた生きた存在とされていく。まさに創世記2章の人間の創造物語と同じ構造がここにあると言えます。
福音の聞き手はどんな人々だったでしょうか。よく読むと、皆ユダヤ人であったと書かれています。「えっ、みんなユダヤ人ならヘブライ語でいいじゃん」と言いたくもなります。ユダヤ人は当時捕囚の経験を経てあらゆる国に散らされて住んでいました。エルサレムに戻ったユダヤ人もいれば、さまざまに分かれて外国の地で暮らすユダヤ人がいました。世代が進み、外国で生まれた二世三世のユダヤ人がいたでしょう。そうした彼らがエルサレムにやってきていたのです。これがユダヤ人でありながら、ほかの国々の言葉が故郷の言葉とされている所以です。
詰まるところ、今日の出来事はユダヤ人がユダヤ人のために福音を語る物語です。弟子たちが整えることができたのは、ユダヤ人のための教会という体だったのです。しかし今やこの体は、点在して暮らすユダヤの人々によって世界へ広がろうとしています。私たちの教会の歴史も、同胞教会、アメリカ、ドイツ、宗教改革へと遡っていくことができます。誕生した教会が成長し、やがて全世界へと広がっていく、その先取りの物語なのです。
自分の故郷の言葉が話されていることを聞いた人々は呆気に取られています。神の偉大な業が語られていることに驚きつつも、怪しんでいるのです。ですから、弟子たちはきっと一方的に語り続けたわけではないのでしょう。相手の言葉や思いを引き出す言葉を語り、温もりをもって受け取り、応答し合う関係を築いていったのではないでしょうか。
2026年度宣教方針は「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。」(ローマの信徒への手紙12章 6節)と掲げています。賜物は、神さまから賜ったものですから、自分のためだけではなくて、誰かのため、そして神さまのために用いるところにこそ賜物本来の本分があると思うのです。つまり賜物とは、個人を超えて、時代や地域を超えて、イエス・キリストの愛と平和を世界へと押し広げていく力なのではないでしょうか。そして聖霊という「風」もまた、いつも神が一人ひとりに吹き込んでおられる命の息なのです。
教会の歩みのみならず、一人の信仰もまた時間をかけて育まれていきます。それは今ここにいる者だけではなくて、たとえどこにいても主が招いてくださる者なら誰にでも与えられる(使徒2:39)。それが神の愛であり、聖霊の約束です。
私たちは生ける教会を造り上げる群れです。賜物を持ち寄って今年度どんな原宿教会を造り上げることができるでしょうか。神さまに「お返し」を届けながら、また互いに恵みを受け取り合う関係を歩んでいきたいと願います。
