主日礼拝説教(2025.11.2)
「神が授けたしるし」 創世記 4章1節-16節
木村拓己 牧師
カインとアベルの物語です。初めての殺人、初めての家族の喪失体験の物語です。弱さや嫉妬、憤り、ついには憎悪すら抱く人間の姿です。カインという名前には「作る、産む」という意味があります。名は体を表すように、土を耕して作物を作り出す存在です。一方、アベルはそうではありません。「はかなさ、空虚さ、無価値」といったとても否定的な意味があります。羊を飼うことと関係していないのです。
主なる神への感謝として、カインは土の実り、アベルは羊の初子をささげます。初物は創造主である神にお返しする、本来はただそれだけの物語でした。その初物をささげる場面で事件は起こるのです。
神はアベルと献げ物の羊に目を留められたが、カインと献げ物の土の実りには目を留められなかった、という神の目線が書き加えられています。兄カインは激しく怒って顔を伏せました。ここで私たちに浮かぶ問いは「なぜ神に申し出なかったのか」ということです。しかし、目の前で起こる不条理に対して、面と向かって声を上げる難しさも、私たちは実感として持っているのではないでしょうか。
面と向かって話すのか、あるいは飲み込んで諦めるのか、それとも飲み込めずに他者に矛先を向けるのか。人のありようがありありと語られています。そしてカインは、その不条理を飲み込むことができずに、本来神に向けるべき怒りをアベルに向けたのでした。
アベルは何も発言しません。兄に呼び出されて命を奪われる、名前通り「はかなく、無価値な存在」です。不条理に対する怒りが最も向けられる第三者とは、いつも自分よりも小さい存在であることを、改めて私たちに思い起こさせる言葉ではないでしょうか。
不満と怒りをため込んでしまう私たち。吐き出すことができずに、不完全燃焼を起こしてしまう私たち。なんとかそれを正常に戻そうと、正しくない形で吐き出してしまう私たち。取り返しのつかないことをしてしまい、相手を傷つけ、自分も傷ついてしまう。それが私たちの姿なのだと聖書は語るのではないでしょうか。
裁きとして、カインは呪われる者となりました。生み出す力と名前をもらったカインが、もはや何をしても実を結ぶ力のない存在とされたのです。誰かに食べ物を与えてもらい、助けてもらわなければ生きていくことができない存在なのです。
あわててカインは神にすがりつきます。ここで見放されれば、誰であれ私に出会う者は私を殺すでしょう。なぜなら私は何も生み出さない、無価値な存在だから…とカインは答えるのです。何もできない自分を受け入れる人がどこにいるだろうか。どこにもいない。そうしたカインの絶望が響いてきます。こうして神は、誰もカインを殺すことがないように「しるし」をつけました。
聖書を読む私たちには、カインの人生のすべてが神に奪われた印象を受けます。しかし、神の目には、カインの生み出す力こそがカイン自身の心を蝕む元凶となっていると映ったのではないかとも思うのです。神はこの力を奪い取り、主に与えられて生きる道を歩ませることこそが、その裁きの意味だったのではないかとも思うのです。
こうしてカインは生き続ける者となるのです。さらには家族が与えられるのです。ここに神の裁きを超えた赦しを見出すことができるのではないでしょうか。「弱い時にこそ強い」という御言葉が思い起こされます。世から見れば、はかなく無価値に見えたとしても、神はいつも目に留めて、誰かと共に生きる道を備えてくださることを思います。自分の可能性が閉じていく時にこそ、神の恵みの大きさを噛み締めるのではないでしょうか。
本日は永眠者記念礼拝です。天に帰られた信仰の先達も、受け入れ難い不条理、失意に落とされる経験を味わわれたことでしょう。それでもどこに向かうべきかを知っておられたお一人おひとりでした。今を生きる私たちもまた、どのように神に向かい合い、不条理に向かい合い、誰かに向かい合って生きていくことができるでしょうか。誰かの助けとして、救いとして、生きていく道を探しながら、歩んでまいりたいと思うのです。
