主日礼拝|今週のみことば

  主日礼拝説教(2026.2.22)

「誘惑と生きる」  マルコによる福音書 1章12節-15節

木村幸 牧師

 荒れ野の誘惑とは何だろうか。マタイとルカの福音書における平行記事にはその内容がある程度詳細に書かれている。サタンがイエスに囁き、洗礼を受けて神の子としての力を持っていると知った今、それを自分のために用いることをしないのかどうかと唆すのだ。
 しかし今日のマルコによる記事は非常にシンプルで具体的なことが語られない。読解するヒントが少ない分、読み手は自身の見識と想像力を求められる。このイエスを荒れ野へと導いた「霊」という言葉は、直前の箇所で天から鳩のように降ってきたものと同じ言葉である。これがそのままイエスを荒れ野へと送り出したという。御霊を通して良いものを与えられた方が、同じ御霊を通して試みをも与えられたということになる。
 他に数少ない情報を与える言葉として、サタンと野獣、天使の存在が挙げられる。単語から自動的に読み手はサタンと野獣に対してイエスと天使が闘うという対立構造を想像してしまうが、元来サタンという言葉に「悪魔」という意味はなく、それは試みを与える役割を負った神の使いであった。野獣は旧約に予言されていたように、平和の王が訪れる救いの日に人と共に安らう存在であると考えれば、そこに敵味方という捉え方は必ずしも正しくはない。
 荒れ野という舞台は、神が世界を人の住処として整える前の原始的な次元、原初の混沌を表していると考えれば、イエスはそこにあってそれぞれの領分、役割、存在の違いを超えて完全な調和を実現する、平和の主ではなかったか。悪を悪として退けるのではない。それぞれがそのままであって、主のもとに調和するという出来事が、ここにはあったのではないか。
 この出来事の後イエスは洗礼者ヨハネに代わっていよいよ伝道の道へと踏み出してゆくことになる。「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉を読む時に、その神の国とは、悪と獣が駆逐されて善人が救われる世界なのか。それとも、すべての存在が違いを超えて、主のもとに調和する平和な世界なのか。私たちが望むのはどちらなのか、改めて考えてみる必要があるだろう。