復活節第4主日礼拝説教(2026.4.26)
「主の御名によって」 ヨハネによる福音書 13章31節-35節
木村 拓己 牧師
ユダの裏切りによって、人の子が栄光を受ける。十字架が、イエスの死に至る道であると同時に、すべての人に神の愛が届けられていく道となっていく。そのことが示される短い箇所です。13章では弟子たちの足を洗い、ユダの裏切りがあります。愛し合う掟が示され、ペトロがイエスを知らないと否定する予告があります。ユダの裏切りとペトロの否定という弱さの狭間で主の栄光が示されている。ここにこそ今日味わいたいポイントがあると思うのです。
イエスを追い続けることがあなたの道なのではない。イエスに導かれて世を生きることこそがあなたの道なのだと伝えられる思いがします。その助けとして愛し合う掟が示されています。しかしここで言われる愛とは真新しい内容ではありません。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉も、イエスが初めて語った言葉なのではなくて、旧約聖書レビ記に記された言葉をイエスが語ったにすぎません(レビ記19:18)。
復活のイエスに出会う前の神の愛となんら変わらないのではないかと思わされます。さらにはキリスト教に限らず、漠然と世の誰もが抱く愛や博愛と変わらないんじゃないかとさえ感じさせられるかもしれません。歴史上、すでに多くの人々によって何度も愛について語られてきたのです。しかしイエスに出会い、十字架と復活の出来事に出会い、教会となって世界に出かけた弟子たちの信仰は、福音は、決して道徳にとどまらないはずなのです。
では、イエスにおいて示された神の愛とはそれまでの愛と何が違うのでしょうか。イエスが愛を示した相手を考えると、わかりやすいかもしれません。線引きされた人間関係を颯爽と超えて、罪人やしょうがい、病気の人に寄り添ったイエス。隔てを超える愛こそが、イエスにおいて示された神の愛であったのではないか。しかし範囲や射程の問題だけでもないとも思うのです。
神の愛とは、キリストを通して示された点では全く新しいものでありながら、同時にどこか懐かしさや温かさを感じるものなのではないでしょうか。神の愛とは、復活の出来事で初めて示された愛ではないからです。誰もがどこかで経験したことのある愛でもあるはずなのです。
イエスはそんな誰もが知る愛を、命を捨ててまで、愛を分かち合う命のつながりを私たちに与えたのでした。これまで考えられてきた愛が、新たな様相を帯びて、輝いて、神の栄光が表されている。私たち一人ひとりの間で神の栄光が表されている。私たちの弱さの間で神の栄光が表されている。それがここで言われていることだと思うのです。
それは私たちに真似できることではないけれど、そんな主の愛に支えられている私たちは、人生の良いことも悪いことも、どんな時でも、主の栄光を帰するように生きていく信仰を告白してきたのではないかと思うのです。
私たちの祈りはすべて、主の御名において祈ります。ヨハネ福音書14章14節では「わたしの名によって何かを願うならば、何でもかなえてあげよう」とイエスも語っています。祈り手は自分の思いを乗せる祈りであって当然ですし、自分の求める願いがあってよいのです。ただそれらを実現なさるのは神です。どのように主が応えてくださるかはわかりません。良い羊飼いである主がうまく導いてくださると委ねつつ、生きていこうとするのが私たちの祈りなのです。
自分のために始めたことがいつか誰かのためになることもあるでしょう。それが良いことか悪いことかはわかりません。しかし後から振り返ってみれば、神によって救いへと続く道として用いられたという不思議な御業が教会で語られ続けてきたことを心に留めて、主の御名においてどんな生き方ができるかを考えてみたいのです。
裏切り者のユダは、私たちの間に主の栄光が現れていることも、愛し合って生きていきなさいとの掟も聞くことができませんでした。しかし私たちは聞いているのです。誰もが知っている愛。その愛を日々の中で誰かに届けることができているでしょうか。復活の主が示してくださった新しくて、懐かしい愛。私たちの心に響いてくる主の愛に支えられて今週も歩んでいきましょう。
