聖霊降臨節第13主日礼拝 説教(2026.8.16)
「主の求め」 ミカ書 6章1節-8節
小林 恭平 牧師
ミカ書はミカという預言者の名を冠した書物であり、彼の預言が収められたものとされています。ミカは紀元前8世紀に活躍した預言者でした。当時のイスラエルは北イスラエル王国と南のユダ王国に分裂しており、ミカが預言活動を行ったのは南ユダ王国でした。当時の中東地域はアッシリアという北イスラエル王国よりさらに北にあった大国が勢力を拡大し、北イスラエルもユダもそれに巻き込まれ、侵略されるという状況にありました。北イスラエルは首都サマリアが陥落し、南のユダ王国の滅亡も間近に迫っている、という状況でした。
滅亡の危機に瀕した北イスラエル王国とユダ王国はそれぞれの方策を取ります。北イスラエルは周囲の国と手を組みアッシリアに抵抗し、ユダは逆にアッシリアと手を組み滅亡を免れようとしました。しかし、それはそれぞれ、他国の宗教の流入を招き、神との契約を結んでいたはずのイスラエルの民が、自分たちの神以外を拝む偶像崇拝や、他宗教の風習が混ざる宗教混淆を生んだのでした。さらには民を束ねていた指導者や宗教家にも腐敗が生じ、不正に富を蓄える振る舞いが横行していました。それは、かつてイスラエルの民と神との間に結ばれた契約を破り、神を冒涜する振る舞いだったのです。指導者たちは金持ちから賄賂を受け、彼らに有利になるよう正義を曲げ、弱者を虐げていました。貧しい者は住む場所も畑も奪われ、生きることすらままならない状況に置かれたのです。また、宗教家たちはある者は賄賂を受け取り、彼らに都合の良い教えを語り、またある者は同じく金を受け取って、彼らに都合の良い預言を与えたのでした。それは神の言葉を偽り、神を売り物にするような冒涜的行為だったのです。にもかかわらず、彼らは「神は忍耐強い方なのだから裁きは下らない」と開き直っていたのでした。
そんな腐敗しきったイスラエルに対し神は「もうお前たちを守ることはない。やがてアッシリアに滅ぼされ、神殿も打ち壊される。そしてその後やってくるバビロン帝国に連れ去られ、民は散り散りになる」と裁きの宣告をします。しかし同時に、「最終的には残された者を集め、イスラエルを回復する」とミカを通し語られたのでした。
そんな預言の頂点に当たるのが、この6章1節から8節です。このセクションは、法廷での論争を模したドラマ形式で語られます。1節から2節では山々や峰々が法廷の傍聴者として呼び集められ、主の告発を聞けと言う言葉から始まります。そして被告人の席にはイスラエルの民が召喚され、主の告発に対し弁明してみよとミカは語ります。
続いて3節からは神の語りが始まります。何度も裏切りを重ね、不正と冒涜を犯し続け、罪を重ねる民に対し、「私はお前に何をしたと言うのか。何をもってお前を煩わせたというのだ」と語り始めます。そして「私はむしろ、エジプトの地からお前を導き上り、奴隷から解放したではないか。そして、お前たちの導き手としてモーセ、そしてモーセを支えるアロンとミリアムを遣わしたではないか。」と出エジプトから始まる神の救済の出来事について語ります。それはエジプトで奴隷だったイスラエルの民を連れ出したことから始まり、安住の地に入植するまでの荒れ野での40年間、民が飢えることのないよう、毎日パンとウズラを降らせ、乾くことのないよう飲み水を与えたことを指します。
続く5節のモアブの王バラクのたくらみ、これは荒れ野で40年を過ごした民たちが安住の地を目前としたときの出来事を指しています。彼らは間もなくヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入ろうとしていました。その宿営地がモアブの平野という場所でした。モアブの王バラクは大所帯で近づいてきたイスラエルの民を見て、非常に恐れます。そうして恐れにかられた彼が最初に取った手段は軍事行動ではありませんでした。バラクは占い師を呼び寄せ、イスラエルの民に呪いをかけるという者でした。そうしてイスラエルを弱体化させたあとで撃退しようと企てていたのがバラクだったのですが、そのたくらみはうまくはいきません。雇われたバラムは呪いをかけようと何度も祭壇を築きますが、そのたびにバラムの口からは呪いの言葉ではなく祝福の言葉が出てきたのです。そうしてついに、バラムはイスラエルを呪うことはかなわなかったのです。イスラエルの民は彼らが知らないところで神に守られていたのでした。
続くシティムからギルガルまでのこととは、約束の地に入植する際の出来事を指しています。シティムはヨルダン川を渡る直前の宿営地であり、荒れ野の旅の最後の宿営地を指します。またギルガルは、ヨルダン川を渡ったイスラエルが、カナンの地で最初に宿営した場所です。
つまり、4節から5節の言葉は、エジプトでの奴隷状態から神がモーセを通して解放し、約束の地カナンまで導き上った出来事を指しています。それは、イスラエルの民にとっては、自分たちの祖先を神が自らの手で救済された歴史であり、自分たちのアイデンティティそのものをあらわす出来事だったのです。神はこれらの出来事を思い起こせとイスラエルの民に語ります。それは自身の業がいかに正しく、民たちに対する愛と恵みと誠実さに満ちているかを示すためでした。
それを受けての民の応答が6節7節の言葉です。6節では、主が民になされた業を思い起こし、一方で自身の罪にまみれた不正や冒涜、偶像崇拝の数々を前に、何をもって神に許しを請えばいいのかと問答を始めます。
最初に思い起こすのは、焼き尽くす捧げものです。レビ記には神への捧げものについての規定がいくつか記されており、焼き尽くす捧げものはその中の一つです。これは捧げものの規定の一番はじめに置かれ、最も重要かつ最上級の捧げものを指します。焼き尽くす捧げものは、犠牲の動物を祭壇ですべて焼く儀式で、焼かれた動物の煙によって、神の怒りをなだめ、神と捧げる者との関係を回復させる役割があります。その規定では、牛や羊、山羊などの家畜のうちの雄でかつ傷のないもの、すなわち家畜の中でも上澄みとされているもののみが捧げものとして認められています。
牛はその中でも最も効果で価値のある捧げものとされていました。さらにその中でも一歳の子牛は最上級のものとして数えられ、それが6節最後の当歳の子牛を指します。
焼き尽くす捧げもの、そしてその中でも最上級の一歳の子牛ときて、次に民が示すのは「幾千の雄羊」と「幾万の油の流れ」でした。7節からは律法において規定されていた捧げものの要綱からも外れ、もはや非現実的な捧げものをもって、神の前に許しを請わねばならないのではないかと言い始めるのです。そして、ついには咎を償うために、わが子、その中でも家督の継承者とされていた長子を捧げるべきだろうかとまで言うのです。
わが子を捧げるという文言を見て思い浮かべるのは、アブラハムが独り子であったイサクを神に命じられて捧げようとした出来事ではないでしょうか。少し先週の話にもさかのぼりますが、当時の子ども観について触れておきたいと思います。古代のユダヤ社会における子どもへのまなざしは、今日における社会や家庭の中で大切に養育されるべき存在という子ども観とはもちろん異なります。しかし誤解しないでいただきたいのは、ローマ帝国のようなわが子を単なる所有物として見るような子ども観だったわけではないと言うことです。むしろ、わが子は自分の命にも代えがたいほど大切な存在として愛されているケースが多く、わが子を失う悲しみを歌ったヘブライ語の詩は聖書やユダヤ教の文献にも多く残されています。だからこそ、このわが子を捧げるという行為は、自分の命を差し出してもなお足りないほどの罪をどう贖えばいいのかと嘆いたイスラエルの民の、自暴自棄ともいえる言葉だったと言えるでしょう。
そんな、もはや償いきれない罪を抱えたイスラエルの民に対する神はこう語ります。「正義を為すこと。誠実さを愛すること。へりくだって神と共に歩むこと。私があなたたちに求めるのはこれだけだ」と。そこには必要以上の捧げものは不要であり、まして愛するわが子を捧げることなど必要ないと言うのです。また主はこうも言われるでしょう。「わが子を捧げる苦しみ、それを味わうのは私だけでいい」と。
神は私たちを愛し、その愛のゆえに独り子イエスをこの世に遣わされたのでした。そのイエスの歩みは愛に満ちていました。彼は社会の中で小さくされていた人々を大切にされたのです。病人を癒し、体の不自由な者を癒し、悪霊に取りつかれた人々を癒しました。差別されていた者と共に食卓を囲み、子どもたちを呼び寄せ抱き上げました。貧しい者は幸いだと告げ、小さくされている者こそ、神の国にふさわしい。また、イエスはそうして小さくされている者に手を差し伸べる者こそ、神に仕える者だと語りました。そして、そんな小さくされている人たちがいる社会で、見て見ぬふりをし、かえって遠ざけ、偽善を行う宗教家や指導者を批判したのでした。
イエスはただ、社会正義を唱えたのではありません。すべては、人類が神に立ち返り、神との愛の関係にあって、イエスが自ら示した愛と正義のわざがなされることを求めたのです。だからこそ、彼は最後まで愛と正義を貫き、十字架にまでかかられたのです。
それは、「私は宥めの捧げものに関係なく、あなたの罪を追求しない」という神の愛の現れでした。イエスの愛のゆえに、何度でもあなたを赦し、あなたを受け入れよう。だから、あなたたちも、互いに愛し合い、イエスの示した正義を為しなさいと語るのです。
私たちは弱い存在です。時に誘惑に負けることもあれば、勇気や決意が足りず尻込みすることもあるでしょう。目の前になすべき正義があるのに、それを為せない時もあります。何より、主なる神を忘れ、自分の思うままに生きてしまう弱い存在です。それでも、主はそんな私たちを愛し、受け入れ、私たちが主のために仕えることを待っておられるのです。主なる神に仕えましょう。弱いままでもいい。それでも、その限りある力をもって、進み出て、イエスの後に従い歩む私たちとなろうではありませんか。
