教会だより

No.52  2016年3月27日

飼い葉桶から十字架へ

牧師 石田 透

 「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。イスラエルの王に。」

 群衆の歓喜の声の中、イエスさまはエルサレムに迎えられました。都エルサレムは王座のあるところです。イスラエルの人々が心待ちにしていた本当の王さまが、あるべきところにようやくお着きになる。そのような喜ばしい雰囲気の中、イエスさまは人々に迎えられてエルサレムに入城されたのです。

 しかし、喜ばしいエルサレム入城の日から5日後、数えて6日目にその新しい王がおられた場所は十字架の上でした。最も重大な罪を犯した者、極めつけの犯罪者がかけられる最も悲惨な刑罰である十字架の上で、イエスさまは手のひらにくぎを打ちつけられた姿で人々の目にさらされていたのです。茨の冠をかぶせられ、額から血を滴らせているイエスさまの頭の上には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書が掲げられていました。人々は、「神の子なら自分を救ってみろ。今すぐ十字架から降りて来い。」とひどい言葉を投げつけてイエスさまを挑発します。しかし、弱々しい姿をさらすイエスさまは、十字架の上から悲しみに満ちた眼差しで人々をただみつめるだけでした。イエスさまはなぜ十字架から降りようとしないのでしょうか。徹底した拷問のため身も心も疲れ果ててしまったのでしょうか。イエスさまは、もう自らの力で十字架を降りる気力さえ失せてしまったのでしょうか。

 エルサレムに入城してから、イエスさまは精力的に真理を語りました。少し休めばよいのにと弟子たちは思ったことでしょう。そんな弟子たちの心配をよそにイエスさまは休みなく働き続けるのです。そして弟子たちとの最後の食事の時、イエスさまはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、盃を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

 イエスさまはいつも他者に気を配り、嘆き悲しむ人のところにはご自分の方から出かけて行かれました。苦しんでいる人を放っておくことができませんでした。自らの平安のためではなく、人々の救いのためにイエスさまは生き抜かれたのです。

 この世の豊かさとは無縁のように思われるイエスさまのそのひそやかな生涯。神さまの独り子には似つかわしくないと不遜にも私たちが思ってしまうようなあまりにも質素なその生涯です。神さまはなぜイエスさまにそのような道を歩ませたのでしょうか。神さまがイエスさまに与えられた「飼い葉桶と十字架」、それは一体何を意味しているのでしょうか。

 それは私たち一人ひとりの苦しみや悲しみのすべてに、この方は寄り添ってくださる。誰も知らないこの私の悩みを主が自分のこととしてくださるということなのです。何もそこまでしなくともと人々が眉をひそめるほどに、イエスさまは低きところへと降りて行き、絶望の淵で喘いでいる私たちを助け、引き上げてくださるのです。ゴルゴタの丘に建てられた十字架はその深い愛のしるしなのです。