教会だより

No.50  2015年5月24日

後でわかるようになる

牧師 石田 透

 ヨハネによる福音書13章7節に「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」というイエスさまの言葉があります。これはイエスさまの真意にまで思いが至らず、的外れな返答をしてしまうペトロに対して語られた言葉です。この言葉は一見深い嘆きを伴っているようでいて、実は深い慰めに満ちた言葉だと私は思います。もしかすると人間にとって大切なものの多くは、「後で分かるようになる」という事柄に属しているのではないだろうかと思うのです。思いめぐらしてみてください。私たちは時が過ぎ、後になって、後悔しながら、なんと多くの真実を知るに至るのでしょうか。

 イエスさまが「後で分かるようになる」と言った事柄は、13章4節~5節でイエスさまが弟子たちに対して為した「洗足」の象徴的な行為の意味です。十字架の死を通して示された自己犠牲的なイエスさまの愛が、その示すべき具体的な内容です。人の足を洗うということは、当時は奴隷の仕事だった訳ですから、師が弟子の足を洗うという人間関係の逆転は、人間の上下の権威関係の強い当時の社会への、大いなる批判であったということができます。イエスさまという方はあえてそれをしたのです。たとえ自分の身に危険が及んだとしても、誰かがそのことを引き受けなければならない。そう思ってイエスさまは行動にでたのです。それは強い覚悟がなければできないことです。あえてそれをしたところに「十字架」の意味があるのです。イエスさまは自分の存在のすべてを賭け、人間一人ひとりを生かす愛の関係の扉を開こうとなさいました。でも、イエスさまがその命を賭けてなさろうとされた、こんなにも偉大な事柄がそんなにたやすく、罪深い者たちに分かるはずがないのです。ですから、命を張ったイエスさまの「わたしのしていることは、今あなたには分かるまい」という言葉には深い悲しみがにじんでいます。しかし、間髪をいれずにイエスさまが語った「後で分かるようになる」という言葉は、何と愛に溢れた言葉でしょうか。そこには弱き者を慈しみ、徹底的に赦し続け、更なる愛を注ぐと言うイエスさまの真骨頂があるのです。

 その愛をイエスさまが熱心に語ったのが、ヨハネによる福音書一四章~一六章の「イエスの訣別説教」です。ここには「助け主なる聖霊」のことが言及されます。イエスさま亡き後に、弟子たちに聖霊が注がれ、「後で分かる」ことを可能にしてくれると言うのです。何という恵みでしょうか。「聖霊」とは得体の知れない何かではなく、私たちが「後で分かる」まで持ちこたえてくれる神の力なのです。様々な失敗を重ね、疲弊しながらなんとか生きている私たちを、父なる神よりの助け主である聖霊が、やがて「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださるのです」。弱い私たちが「後で分かるようになる」まで、聖霊が私たちを支え続けてくださるのです。その助け主の執り成しで、私たちはイエスさまの愛が「分かる」ことを得るのです。

 では、「分かる」とはどういうことでしょうか。それは私たち一人ひとりが愛の主体となり、イエスさまの愛を聖書に書かれた「過去」のことではなく、今を生きる私たちすべての者に関わる「現在」のものとして受け止め、その愛を生きるということです。聖霊の心地よい風に身を任せ、今一度イエスさまの「苦しみと愛」を追体験できればと心から願います。