ある日の説教から

「神に与えられたいのちを生きる」   牧師 土橋 晃

 年末の風物詩の一つである「今年の漢字」に豪筆を揮った京都清水寺管長の書は、「命」だった。全国公募による昨年の「一年の世相漢字」だ。天皇家における嬰児の誕生、いじめや虐待による自死と命の軽視、痛ましい事故、戦争や核実験への不安など、「いのち」について考えざるを得ない状況と、改めていのちの重さと大切さを痛感せざるを得ない「世相」の反映である。

 旧約聖書「創世記」2章は、私たちのいのちの根拠を神話的に語る。「神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と。詩篇の最後(150篇)は「息あるものはこぞって、主を讃美せよ。ハレルヤ」と詠う。神に与えられたいのちを生きる存在としての人間を描いている。

 私事で恐縮だが、去る3月に孫(女児)が与えられ、「祖父母」の仲間入りを果たした。自分の子どもたちの誕生をふり返ると、「働き盛り」で多忙だったことと、世代的に「出産、育児は妻にお任せ」気風のため、出産に立ち会うことなど夢にも思わなかった。2人の娘とも、「無事誕生」の知らせを受けて、病院を訪ねたものだ。ところが今はそうではない。「子育ては、両親だけでなく祖父母も含め、家族でサポート」だそうだ。産院には、祖父母のための育児講座まである。

 さすがに受講はしなかったが、出産には夫だけでなく、祖父母も立ち会ったほうがよいという強い勧めには従うことにした。初体験である。夫は分娩室に、祖父母たちはドア一枚で仕切られた隣室で待機した。話し声や物音が手にとるように聞こえ、臨場感あふれる緊張だ。医師と看護士の指示や励ましの声、器具の触れ合う音、陣痛を押し殺す産婦の声、思わず祈る。暫くの静寂の後、「オギャー」という力強い産声、祖母たちは涙ぐんでいる。新しいいのちの誕生に「神が命の息を吹き入れられた」ことを実感した。

 聖書には、いのちを表す言葉が幾つかある。その共通点、原点が「息・霊・風」等を意味することは、古代人の素朴なしかし深い洞察を示している。私たちの命は、自分のいのちであるが、与えられたものであり、自分勝手には出来ないのだという理解である。そこには、生物学的な命も含まれるが、むしろ「魂・心」を意味するように、「ホントウの人間らしく生きる」ことが語られているのだ。

 イエス・キリストは、「自分の命」を救おうとする者はそれを失い、イエスのために命を失う者は、それを得ると言われ、所与としてのいのちをあたかも自己所有であるかのように処理する人間の誤りを指摘される。与えられたいのち、与えてくださった方への憧憬と信従、真の自分として、他者と共にいきいきと生きるいのち、など私たちに問いかけておられるのだ。

 さらにイエスは、「自分を捨て・自分の十字架を背負い・わたしに従え」と言われる。与えられたいのちに生きる道を示されたのだが、厳しい言葉である。それも「日々」と語られて、日常的な事柄とされる。ますます難しい。目を閉じ無視するのか、避けて通るのだろうか。そうではない。ルターやボンフェッファーも言っているように、「無理に苦しみや十字架を探す必要はない。いのちの息に活かされ、イエスの呼びかけに応えて歩む時、そこでそれぞれの十字架に出会う」のだから。

 イエス・キリストが既に十字架を背負っていてくださる。あなたがたは自分のいのちのために何かを支払う必要はない。イエスが払っているのだ。だから、あなたがたは神に与えられたいのち−本当の自分−を発見し、いきいきと生きなさい、と聖書は語る。

 パウロもその体験をとおして、「神は、その人が耐えられないような試練には遭わせない。むしろ試練と同時にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださっている」と励まし、私たちそれぞれが、悲壮感や気負いなく、日々背負うことのできる十字架を負って「新しいいのち」に生きることを勧めている。

 かつては自明のことであった「いのちの大切さ」が、ことさらに語られなければならない状況のなかで、私たちは改めて「与えられたいのち」をどう生きるのかが問われているし、聖書の「いのち」観を周囲に発信する役割を託されているのではないだろうか。

(ルカ福音書9章21節〜27節を味わいつつ)

 

「母の願いを聞くイエス」 −教会の立脚点−   牧師 土橋 晃

 子どもの幸せを願わない親はいません。特に母親は「おなかを痛めた」ためもあって、その思いは強いようです。母性愛の発露で麗しいことも多いのですが、エゴイズムの塊のようになって辟易させられる事もあります。

 イエスの弟子たちの母親も同じでした。ゼベダイの息子たちの母がイエスの前で何か言いたそうに口ごもっています。他の弟子たちへの抜け駆けに後ろめたい思いだったのでしょうか。イエスのほうから「何が望みか」と聞いてくださり、彼女は「あなたが支配者になったら、私の子どもたちをよろしく」と本音を覗かせます。この「親ばかぶり」は、他の弟子たちの非難を誘いますが、彼らも同じ思いだったからでしょう。イエスの十字架を前に、弟子たちの権力争いとむき出しの利己主義は私たちの現実の姿でもあります。

 『あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい』とイエスは諭されます。弟子集団の中では、誰が偉いかが問題ではなく、共通の主人(イエス)の姿を学び、それを生きることが大切なのです。

 私たちはどうでしょうか。支配欲や権力志向のぶつかりあう只中にいます。それは家庭内暴力、校内暴力、テロ、戦争などの暴力に端的に示されています。教会も、仕えることを忘れ、権力志向になると堕落します。歴史がそれを物語っています。

 イエスの言葉の実践は難しいことです。しかし、十字架をとおし、身をもって示してくださった生き方を見つめる時、新しい事態が始まることでしょう。私たちが言葉に出せない願いをイエスは「何が望みか」と聞いてくださいます。どんなことでも、申し上げる勇気を与えてくれる言葉です。祈ることです。間違いは正されます。大胆に祈りましょう。

 私たちに「仕えて」くださるイエス、皆の僕になってくださった姿を凝視しましょう。礼拝は「サーヴィス」と呼ばれます。奉仕です。それは私たちが仕える前に、神が私たちに奉仕して下さっているという意味ではないでしょうか。神のサーヴィスを受け取ることが私たちの奉仕の出発点であり、原点なのです。卒園・卒業の子どもたち、そして教会もここに立脚点があることを確認しましょう。(祝福礼拝)

 

「復活・フェミニズム」   牧師 土橋 晃

 毀誉褒貶というが、「ホサナ、ホサナ」と叫んでイエスを歓迎した人々は、今や「十字架につけろ、殺せ」と叫ぶ群衆と化した。そんな中、息絶えたイエスの亡骸を引き取ったのは弟子たちではなく、アリマタヤのヨセフというユダヤ議会のメンバーだった。

 このヨセフの行動を見逃さなかった人たちがいた。ガリラヤから従ってきた婦人たちだ。どこかへ逃げ去った直弟子と違い、十字架を遠くから眺めていた彼女たちは、イエスの墓を確認し、安息日の明けるのを待ってそこを訪ねるために、香料と香油の準備をした。これは非常に高価なものだった。しかし彼女たちは、愛するイエスのために今出来る最高のことをしたかったのだ。福音書は、イエスと行動を共にした婦人たちの名前を記す。マグダラのマリアをはじめとする「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」何人かの婦人たちだ。ユダヤ教とローマ帝国への反逆者として死刑になった人の墓を訪ねるなど危険千万。しかし彼女たちは、イエスへの熱い思いに、逸る気持ちと人目を避けるため、「明け方早く」墓に行く。一方、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよい」と豪語していた弟子たちや他の男性たちは、死の恐怖と自分たちのイエスへのイメージ(王・メシア)が幻想だったことに落胆し、雲隠れしてしまった。

 墓に着いた女性たちは、イエスが墓の中にはいない、復活されたと知らされた。復活のニュースを最初に聞いた彼女たちは、同時に「復活の証人」第一号の栄誉を担ったのだ。パウロの「キリストが復活しなかったのならわたしたちの宣教は無駄、あなたがたの信仰も無駄です」との言葉を聞くとき、キリスト教の最も重要なニュースの最初の担い手が女性だったという福音書の記事は何を語りかけているのだろうか。当時の男性中心、父権制社会にあっては異例のことなのではないのか。

 彼女たちにしてもイエスの死に遭遇したとき、男性の弟子たちと同様に深い挫折感を味わったに違いない。だが十字架の前に立つ姿は正反対である。最後までイエスと共にあろうとした心を神は用い復活の担い手とされたのか。

 彼女たちの中でひときわ脚光を浴びているのがマグダラのマリアである。七つの悪霊にとり憑かれたこの女性は、すべての福音書にイエスの死、埋葬、復活の場面に登場する人物だ。人々からつま弾きにされた女性であった。人間として認められず、疎外されていたこの人がイエスと出会い、人間としての自己を回復し、新しいいのちに生きはじめた「復活のいのち」の歩みが人々をイエスへと誘う働きに駆り立てたのであろう。また、初代教会の信徒たちも、よみがえりの命に生きる彼女を最初の証人として受け入れたのだ。

 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。男も女もありません」。パウロのこの言葉は、教会加入時の洗礼式々文で告白されたものだといわれている。その前後の文脈には、人種、地位の差別もなく「キリストにおいて一つ」と強調されている。そこには復活のイエスを中心にしたキリスト教会の新しい交わりのかたちが示されている。

 次いで復活物語は、「ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」と語る。イエスと共に生き、新しい生を示された場所である。そこを思い起こすことは、もう一度生き直すことでもある。そこにはイエスが共にいてくださるのだ。ガリラヤは今ここにも存在している。私たちが生きるこの現実の中でイエスは復活された。「主が共にいてくださる」のだ。

 

「クリスマスをめぐる人々」   牧師 土橋 晃

 「十人十色」というように、人の集まるところには様々な人たちがいます。教会もその例外ではありません。同じ神を信じ、「ひとりの主」に招かれているといっても、皆違います。もっとも全体主義国家のように、皆同じ顔をして同じことを語る方が問題でしょう。

 私たちの周囲を見ても、性別はもちろん年齢、環境、信仰理解などバラエティーに富んでいます。静かな湖面のようにひっそりとしかも穏やかで着実な信仰生活を送っている人、熱意を持って教会活動に活発に参与している人、教会改革の旗手を自認して突然乗り込んできて台風のように去っていく人、熱心さのあまりそれに押し潰されそうになる人、状況をよく見ないで独走してしまう人など様々です。

 私たちはともするとそのような考え方の違いや立場の相違に目を奪われ、平静な話し合いが出来ずに、感情的な議論に走ってしまいます。そこでは対立が目立ち生産的な方向が見えてきません。パウロは「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました」と語り、相違の多様性を認めつつしかも「キリストの体である教会は一つ」であり、「一人一人はその部分」だと多様性の中の一致を強調して、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と「別の道」を勧めています。

 クリスマスにイエスを迎えた人たちにも様々な人がいました。マタイ福音書を読んでみましょう。

 まず、東方からはるばる旅をしてきた「占星術の学者」たちが登場します。彼らは古代のこと、宗教家であり哲学者、自然科学者でもあったので、当然旧約聖書の知識も持っていました。ですからメシアの誕生に興味を持ったとしても不思議ではありません。しかし、ユダヤ人にとっては、神と関係のない神の救いの外側にいると考えられていた外国人のこの人たちが、微かな星の光を導きにして未知の国へと旅立った姿は奇妙でさえあります。ここに素朴なしかも一途な「求道者的信仰」を見るのは読みこみ過ぎるでしょうか。

 東方の学者たちから救い主(メシア)誕生の問い合わせを受けた「ヘロデ王」は、自分の地位が狙われるのではないかと疑心暗鬼になります。「エルサレムの人々」までが不安を抱いたとあります。旧約の預言を待望していたはずなのに、いざ実現となると自己保存や安定を望んで変革を否定する「保守的信仰」と、昔はよかった式の懐古趣味をここに見せられます。

 ヘロデは聖書学者たちを集めて、幼子の居場所を突き止めようとします。「祭司長、律法学者」たちにとっては、いとも簡単な問いでした。すぐにミカ書の言葉から、「ユダヤのベツレヘム」と答えました。ところが彼らは、実際に腰を上げて確かめようともしません。神学の研究や活動には熱心でも、ホントウのものを無視し見落とす「ファリサイ的信仰」があらわれています。

 一番信仰的、宗教的だと思われる人々が、イエスの誕生に無関心で一歩も動こうとしないのに対し、外国人や抹殺しようとするヘロデが強い関心を示しています。マタイ福音書が、ユダヤ人を対象読者としているとすれば、この物語には彼らへの痛烈な批判と皮肉が込められています。

 「イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めている」只中にクリスマスの出来事が知らされました。これは私たちの現実でもあります。東方の学者たちが「別の道」を通って帰ったように、クリスマス、イエスとの出会いは、私たちに新しい道を指し示しています。

 

「出会い」(創世記32・23-32)   牧師 土橋 晃

 私たちの人生は出会いの連続です。毎日いろいろなひとびとと出会い、新しい物の考え方や生き方と出会い、事件と出会っています。ですから人間の生活から出会いを取り去ったとしたら、まことに味気ないものになってしまうでしょう。特に人と人との出会いは面白くもあり不思議なものであるというほかありません。あの時にあの人と出会っていなかったら、いまの自分の境遇はもっと違ったものになっていただろうと思わされることはよくあるものです。私たちの人生は、人と人との出会いによって、思わぬ方向に導かれていきます。そのことが実は私たちが生きているということのあらわれなのかもしれません。

 私たちがもっている種々さまざまな出会いの中で、神との出会いほど劇的なものはないでしょう。私たちの中でこれ以上の出会いを求めることは無理ですし、ありえないからです。これほど熾烈なまた恵みに満ちた出会いはないでしょう。

 創世記32・23-32は、ヤコブと天の使いの相撲の記事でヤボクの渡しの物語として知られていますが、ここには神との出会いによる新しい出発が端的に語られているといえるでしょう。

 ヤコブ、この名前は、「狡猾な者」とか、「人をおしのける者」という意味だといわれていますが、その名のとおり彼のこれまでの人生は、虚偽と卑怯に彩られていました。兄エサウの空腹に乗じ長子の特権を手にし、年老いた父親イサクの目が不自由なのをよいことに、長子の祝福までも奪ってしまいます。さらにハランで伯父のラバンに20年間仕え、父の家に帰るゆるしを得た機会に、狡猾な手段でラバンから多くの羊の群を手に入れることに成功します。

 このようなヤコブですから、神にたいしても取引をもって臨んでいます。ヤコブの悌子で知られるベテル物語で、彼は神と出会っているのに神と駆引きし、自分が望むものを手に入れるまでは、何もさしあげないと念を押しています。しかし神は、ヤコブの立てる石や柱や十分の一の捧げ物を望まれてはいません。神はヤコブその人を望まれているのです。しばしば私たちが望む神と私たちを望まれる神とは似ても似つかぬものであることを知らなければなりません。

 権謀術数によって名誉や地位や財産を得て、ヤコブの人生は表面的には成功したかのようにみえました。しかしそれらはみな、この世的な思い煩いによって得た「地上のもの」にすぎませんでした。彼は決して心安らかではありません。ホセアの言うように、「(神は)ヤコブをそのしわざにしたがって罰し」(12・3)られたのです。目的地には20年前の彼の仕打ちに怒りを燃やしているであろう兄エサウが待っています。今さら伯父のところへ戻ることもできません。

 ヤコブはひとりあとに残りました。たよるべき何物もなく、助ける物もいない暗黒の中で、今や自分が神の恵みを受けるに足りない者であるという謙虚な自覚を持って神に祈りました。その時ひとりの人が来ました。ホセアは「天の使い」と言い、ヤコブもその人に祝福を乞い、そこをベニエル(神の顔)と名づけたことなどから、その人が神であったことがわかります。

 神は、私たちがたずねていくのを待っておられるのではなく、神のほうから近づいてきて、私たちに出会ってくださるのです。そしてその出会いは、熾烈な組打ちであったのです。この執拗なまでの組打ちはヤコブの神への熱心な祈りであるといえるでしょう。人生のひとつの危機に神はヤコブに出会われ、彼もこの機会を逃すことなく熱心に求めました。そのことをとおして、ヤコブのかつての自己中心的性格は砕かれ、狡猾さは敬虔へと変えられました。彼はもものつがいをはずされることにより、強情な自分を頼みとする頑固な人から神を杖として歩む人にかわったのです。その名も「イスラエル」−神と共に不屈な者とされました。ヤコブは新しい人として生まれかわりました。神は私たちと出会うことにより、絶えず私たちをつくりかえているのです。

 神を見ると死ぬと考えられていたにもかかわらず、大きな恵みによって生かされているイスラエルの上には、暗黒から新しい出発を祝福する明るい日ざしが輝いていました。勝利を与えられたものとして、しかも謙遜に回心の傷あとをそのからだに持ちながら、朝日の中をゆっくりと歩き出しました。

 新約聖書もキリストによる新生を語っています。キリストとの出会いは私たちを、神を杖として歩む信仰による生、日の光の中へと歩む希望の生、そして他者と共に歩む愛ある生へと私たちを招いています。私たちの人生での出会いを大切にして生きていきたいものです。

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